幕末の血なまぐさい京の治安を守った新選組はあまりにも有名だが、同じように治安維持に携わった京都見廻組についてはほとんど知られていない。
◎新選組とは肌合いが異なる幕臣で組織された幕府の治安組織
新選組が会津藩お預かりの浪士で編成されたのと異なり、京都見廻組は幕府によって幕臣で構成されていたことが大きく異なる。多くは旗本の次男・三男で、剣術の腕の立つ者たちだった。
見廻組は新選組と同じく、反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したが、見廻組は主に御所や二条城周辺の役所周りを管轄した。構成員は約400人。一方、160人弱の新選組は祇園や三条などの町人街・歓楽街を管轄とした。そのため見廻組は、人数が新選組の倍以上もあるのに、京の町衆にはどうしても池田屋事件などで大活躍した新選組に見劣りした。
管轄も組織も異なるから、両組織の間はしっくりとは行かず、共同行動をとることもなかった。
◎佐々木只三郎指揮で坂本龍馬暗殺
その見廻組を後世に有名にしたのは、慶応3年(1867年)11月15日の京・近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎の襲撃・暗殺だ(近江屋事件)。ただこの暗殺行は秘密裏に行われ、見廻組当事者も犯行を秘匿したので、明治維新後まで真相が分からなかった。
襲撃を指揮したのは、幕府講武所の剣術師範を務め、見廻組でも有数の使い手とされた佐々木只三郎だ(写真)。佐々木只三郎は、会津出身だったので、会津藩主・松平容保が京都守護職に就いた後、京に駐在した会津藩士とは交流があった(6月9日付日記:「幕末に義を通した会津出身の見廻組指導者、佐々木只三郎を再考する」
https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202606090000/を参照)。
◎佐々木只三郎は鳥羽・伏見の戦いで受傷後に紀三井寺で死去
王政復古後に政権を乗っ取った薩長ら西軍が京阪から幕府勢力を一掃しようと引き金を引いた鳥羽・伏見の戦いには、京都見廻組は新選組とともに第一線に立って戦ったが、最新の火砲で武装した主に薩摩藩兵に敗れた。
佐々木只三郎はこの戦いで右脇腹に銃弾を受け重傷を負った。数日後、和歌山に敗走中に、和歌山市内の紀三井寺で死亡した(写真=紀三井寺の墓、なお佐々木只三郎の墓は、故郷の会津にも設けられている)。
鳥羽・伏見の戦い後、京都見廻組は江戸に戻ったが、幕府が西郷隆盛率いる西軍との抗戦を断念したため、解散した。
しかし半数強は、徳川慶喜の恭順に服さず、解隊後も西軍との戦闘を続けた。佐々木只三郎と共に龍馬を襲撃した今井信郎などの隊士たちの一部は、北関東や会津に転戦、最終的には箱館戦争で降伏した。今井信郎(写真)は、大正7年(1918年)まで生きた。
◎歴史を方向を変えた龍馬暗殺
さて、京都見廻組の唯一とも言える「戦功」である龍馬暗殺をどう評価すべきかだが、この時点で龍馬は倒幕の側に与しておらず、生き続けていれば、薩長と幕府の間に入って、連合政権創設に関わった可能性が高い。
明確に武力倒幕の旗を掲げていたかつての盟友の西郷隆盛とは、「船中八策」に盛られたように明らかに方針の違いが生じていた。そのため西郷にすれば、龍馬は倒幕を妨害する邪魔者と映っていた可能性が高い。その意味で、龍馬の死は望外のことだったに違いない。
京都見廻組が結果的に薩長藩閥による新政府樹立に手を貸したのだとすれば、これほど歴史の皮肉はない。
注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。
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