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2026年10月11日05:35

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箱館戦争まで戦い幕末を駆け抜けた新選組の希有なキャラクター、島田魁は生涯、同志たちを弔い続けた

 幕末の京の治安を守った新選組は、今も根強い人気がある。その筆頭は、最後まで転戦した箱館で戦死した土方歳三、戊辰戦争を戦うことなく労咳で早世した沖田総司だろうが、「最後まで転戦した」と言えば、島田魁(魁は「さきがけ」と読む)を抜きにしては語れない。

◎巨漢で剣術と槍術の免許皆伝
 島田魁(写真)は、現岐阜県の生まれ。江戸に出て心形刀流(とんぎょうとうりゅう)の道場で熱心に修行していて、その道場で師範代を務めていたのが永倉新八と知り合い、以後、戊辰戦争後まで深い交わりを結ぶ。
 永倉新八が文久3年(1863年)5月に京で結成された近藤勇らと「壬生浪士組」に加わると、京にいた島田は永倉から浪士組に誘われて参加した。直後の「八月十八日の政変」(会津藩と薩摩藩などの公武合体派が、京から急進的な尊王攘夷派の長州藩と三条実美ら過激公卿7人を追放した宮廷クーデター)の後、浪士隊が新選組と名が改まった時には既に在籍していたから新選組草創期からの生え抜きである。
 島田魁は、伝えられるところでは身の丈6尺(182センチ)、体重45貫(168キロ)の巨漢で、剣術と槍術の免許皆伝だった。それほどの腕前だったのに、最盛期十番隊まであった隊の副長助勤にならず、一段下の伍長だった。近藤勇の覚えが良くなかったから、とされる。ただ二番隊の副長助勤だった盟友の永倉と共に戦えたのがせめてものことだった。

◎幕末と箱館までの戦闘・戦乱を戦い抜く
 永倉はじめ新選組の同僚からは、島田は「力(りき)さん」と慕われた。浪士組が大坂に下った際に大坂相撲の力士たちといざこざになり、島田は力士を1人、投げ飛ばしてしまったからだ。
 そうした豪の者なのに島田は酒に不調法であり、一方で大の甘党だった。
 尊攘派浪士から鬼とも恐れられていた新選組の中にあって、島田は希有なキャラクターであった。
 新選組入隊後、島田は八月十八日の政変、池田屋事件(絵)、伊東甲子太郎ら分派の御陵衛士を襲った「油小路の変」にも参加し、さらに鳥羽伏見、甲州勝沼、流山、会津、宇都宮、仙台、箱館と転戦している。それほど修羅場を潜り抜けてきた島田だったが、最後まで生き残ったことは驚異的だ。この間、一時は230人を越えた新選組は、箱館戦争降伏時には島田を含めて一桁に減っていたのだ。

◎箱館戦争後に京に落ち着く
 箱館戦争時、島田は土方とは別に弁天台場にこもって新政府軍の艦艇と戦ったが(写真=弁天台場跡に立てられた標識と碑、そして島田の顕彰碑)、1869年(明治2年)5月15日、新政府軍に投降した。壬生浪士組に参加以来、足かけ7年の長い戦いの日は、ここに終わった。
 投降後に島田は、箱館で謹慎生活を送り、11月に謹慎を解かれると、名古屋藩に預けられた。
 名古屋で、鳥羽・伏見の戦い前に京で別れて以来、離別していた妻のおさとと長男・魁一郎と出合う。
 その後、京に戻り、様々な商売を始めるが、「武士の商法」でいずれも失敗したが、剣術道場を開く一方、薄給のままに西本願寺の夜警に就く。

◎新選組隊士たちの菩提を弔う日々
 敵との戦いに死没し、あるいは自らの手で屠った若くして散華した新選組隊士たちの菩提を弔うため、島田は念仏をかかさなかった。西本願寺の夜警になったのも、隊士たちの菩提を弔うためでもあった。
 またこの間、暇をみては、賊徒として排斥された新選組の真実を後世に伝える伝えるための『島田魁日記』を残した。

◎変節漢、榎本武揚の面会の求めを断る
 島田が死ぬまで抱き続けた矜恃とこだわりを何よりも示すエピソードが伝えられている。明治13年(1880年)の某日、彼が最後まで戦った箱館の蝦夷共和国政府総裁だった榎本武揚が、京を訪れた折りに島田のもとに「1度会いたい」と使いを送ってきた。その時、榎本は新政府に出仕後に顕職を重ね、海軍卿だった。使いに会った島田は、「会いたければ、先方から出向いてくるのが礼儀というものだろう」と断ってしまう。面会すれば、榎本から仕官の誘いもあったはずなのに、その機会を絶った。新選組の同志を含め、薩長主体の西軍との戦いも含めれば、40人近い若者の死を見てきた島田は、旧幕臣で新政府高官の出世頭になった榎本を変節漢とみなしていたのだ。
 島田は5男1女をもうけたが、明治期も不遇に生きたために貧窮のうちに過ごし、長男を含め3人の男児と1女を幼く、あるいは若くに亡くしている。

◎盟友永倉新八との19年ぶりの再会
 長年の盟友だった永倉新八とは、甲陽鎮撫隊として加わった甲州勝沼の戦いで敗退後に、永倉が近藤勇と袂を分かったのをきっかけに別行動をとることになった。
 しかし明治20年(1887年)秋、生き別れとなった妻子を探しに来た永倉は西本願寺に島田を訪ねて19年ぶりに再会する。
 この時、永倉は入り婿して杉村義衛と名を変えていた。2人は、それぞれの軌跡と思い出を語り合ったという。

◎明治33年に72歳で死去、葬儀には永倉新八も参列
 島田は、新選組生き残りの中でも長生きした。亡くなったのは、明治33年(1900年)3月20日、西本願寺で夜警勤務中に倒れた。72歳だった。
 葬儀には永倉も参列、お悔やみ帳に杉村義衛の名を残している。
 なおその永倉は、大正4年(1915年)1月5日に満75歳で没し、会津戦争まで共にした斎藤一は同年9月28日に万71歳で亡くなっている。

☆関連日記
・26年6月24日付日記:「維新後に北海道に移り住んだ新選組の数少ない生き残り永倉新八の足跡を北大前にたどる」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202606240000/
・23年5月31日付日記:「函館の旅(19):新撰組最後の地、弁天岬台場跡を観る:あの島田魁もここで降伏」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202305310000/
・21年3月27日付日記:「幕末に無敵の強さで京の治安を守った武装集団=新選組、戊辰戦争後も生き残った義に生きた武士たちの維新後:後編(斎藤一、永倉新八)」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202103270000/
・21年3月20日付日記:「幕末に無敵の強さで京の治安を守った武装集団=新選組、戊辰戦争後も生き残った義に生きた武士たちの維新後:前編」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202103200000/

注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。
 写真をご覧になりたい方は、お手数ですが、https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202610110000/をクリックし、楽天ブログに飛んでいただければ、写真を見ることができます。

昨年の今日の日記:「上野の国立科学博物館、『氷河期展』を観に行く(2):ネアンデルタール人の狩ったライオン」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202510110000/

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