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2026年06月09日01:31

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幕末に義を通した会津出身の見廻組指導者、佐々木只三郎を再考する

 今、毎週月曜日にNHK−BSで再放送している『八重の桜』はいつもながら食い入るように観ている。
 ここには、幕末の佐幕派や尊攘派の活躍がほぼ史実どおりに描かれているが、8日放送の第20回までに、長く誤解していた京都見廻組の与頭(くみがしら)だった佐々木只三郎(写真)は登場していない。

◎京の治安を守った尖兵
 京都見廻組と佐々木只三郎は、佐幕派の武装勢力だった新選組と近藤勇・土方歳三ほど有名ではない。佐々木只三郎は、坂本龍馬と中岡慎太郎のいた近江屋を襲撃し、2人を暗殺した下手人として、わずかに知られているに過ぎない。正義漢だった彼は、私益に走った浪士組の指導者の清川八郎(絵)も暗殺している。その武勇伝が示すように、佐々木は神道精武流の使い手だった。幕府講武所の剣術師範を務めたともいわれる。
 「長く誤解していた」と書いたのは、龍馬の暗殺犯として皮相的、否定的に見ていたからで、結果として佐々木の犯行が明治維新の行方を大きく変えてしまったのは否めないが、彼は彼で、会津藩と新選組と共に、京の治安を守ったことに大きな功績があった。ちなみに龍馬暗殺は、龍馬が寺田屋遭難事件で捕縛に急襲した捕り方を拳銃で射殺した件の取り締まり方の職務行為だった。
 御所を襲撃し、京を焼き払った長州に対する「蛤御門の変」防衛戦争にも見廻組を率いて参戦している(絵=会津藩兵に砲撃する長州藩軍)。

◎鳥羽伏見の戦いにも最前線で戦う
 見廻組は、旗本の次男・三男で剣術に秀でた者を募った。佐々木只三郎も、旗本身分だった。ただ出身は会津藩の藩士の三男だった。後、親戚の旗本の佐々木家に養子に出た。
 だから気分としては、義を何よりも重んじる会津藩士の士風が濃厚だった。徳川300年の平穏の中ですっかり士風を失っていた旗本出身者の見廻組の中ではむしろ異質だった。
 ただ主に浪人で構成され、農民や町人出身者も混じっていた新選組とは肌合いが合わず、共闘することはあまりなかった。
 佐々木只三郎は、徳川慶喜が多くの部下を見捨ててて逃亡した鳥羽伏見の戦いでは、会津・桑名藩、新選組とともに最前線で戦った。幕府側の諸藩の多くが寝返ったり、日和見傍観していたのに、だ。
 寝返りの最悪の藩は、譜代の筆頭、彦根藩だ。元大老・井伊直弼を藩主とし、藩祖の井伊直政は徳川家康の天下取りに大きな役割を果たしたのに、鳥羽伏見の戦いが始まると真っ先に薩長側に寝返り、その後は新政府軍のお先棒を担いで東山道軍の先鋒を務めたりした。

◎深傷を負い、敗走中に和歌山で死去
 その点、佐々木只三郎は出身の会津藩とともに義に忠実だった。
 鳥羽伏見の戦いで薩長新政府軍に抵抗し、銃創を負い、これがもとで和歌山に敗走中に紀三井寺で客死した(写真=紀三井寺の佐々木只三郎の墓)。
 歴史は勝者によって書かれ、評価される。であるから、敗者の佐々木只三郎には冷酷だ。
 新選組が今も映画やドラマ、漫画で好意的に大きく描かれるのに、見廻組と佐々木只三郎にはほとんど日が当てられない。もう少し、光が当てられ、評価されていい義士だと思う。

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