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2024年04月17日21:56

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「中欧の分裂と統合〜マサリクとチェコスロヴァキア建国〜」 林 忠行著

「中欧の分裂と統合〜マサリクとチェコスロヴァキア建国〜」
林 忠行著、中公新書1993年7月発行。
国家とは何か、民族とは何か、民族国家とは何か、、何度も内外で問い掛けられて来た各概念と各定義付けについて何度も反芻させられました。
人間を含む生き物の命には限りがあるように、国家を含むどんな組織体であっても永遠はあり得ないだろうし、ましてや理想とされる平和という状態が永遠に続くものではない事を、諦めの境地ではなく、歴史の現実として捉えさせられます。
古代日本の縄文時代や、最近に近いところでは江戸時代の約260年間が平和であったらしい、とはよく言われますし、大東亜戦争終了後の今日に続く79年間は辛うじて、少なくとも日本国内では物理的な対外戦乱に巻き込まれずして有り難く今日まで過ごさせていただいています。子供の頃、「戦争を知らない子供たち」という歌をよく聴き、よく口遊みましたが、おそらく、当たり前ではなく、奇跡の?79年間の真っ只中を生き長らえているのだと思わされます。今日現在も続いている戦争をネットやテレビ等で他人事のように眺めながら、時には見て見ぬ振りをし胡座をかきながらこの本を読んでいました。さて、本書読了後、"中欧"という定義付けは別として、欧州における国境線の目まぐるしい変遷を理解するのは本当に大変である事を痛感します。チェコスロヴァキアという言葉と国家が"出来る"までに幾多の尽力が積み重ねられて来ましたが、マサリクという初代大統領を中心にした国家形成物語の一旦を覗き見しました。チェコスロヴァキアという国家は自然発生したものではなく、先人達の強い意志と犠牲の積み重ねで運命に翻弄されながらも漸く地球の地図上に誕生したのですね。なまじっか何度か東欧の数ケ国を訪れて少しは東欧の事を知った被りにもなっていたのですが、本書を通して、あの時それぞれの人々が見せた態度や振る舞いとか、私が彼らから聞いた話について、今ではより一層理解出来るように感じています。昔、熊本ユースホステルで出会い、別府での観光を共にした事のあるブルュッセル在住のチェコスロヴァキアから出て来られたとのベルギー国籍の方宅にその後何日間かお世話になった事があるのですが、どんな近代史を引き摺りながらチェコスロヴァキアから出て来られていたのか、、、私からしっかり聞けるだけの知識が足りないまま来てしまっていました。自民族への批判も忘れず、"主権の相対性" とか "相互依存" とか "自己抑制"を表現したが故に「ドイツ人の手先」とか「ユダヤ人の手先」と攻撃された事もあったマサリクの先見性がいかなるものであったか、どれ程のものであったか、引き続き関心を継続してみたいと思います。
再認識しましたが、チェコ語では、苗字に男性形と女性形の区別がある、との事。
本書を読みながら残しておきたい箇所を下記に幾つかメモっておきました。

著者がチェコスロヴァキアに留学していた1980年頃、マサリクは歴史のタブーと言ってよかった。
カレル大学哲学部入口に立つ像は、マサリク→レーニン→マサリクへと変わった。

1918年4月15日付け朝日新聞に「昨夜(日本の)某所にて」と写真入りで紹介されたマサリクを探すのに警視庁外次係の竹山安太郎が手こずったのは、「T G マルスデン」という英国発行の偽名パスポートをマサリクが使っていたから。が、竹山安太郎はマサリクと思しき宿泊客が帝国ホテルに滞在中である事を突き止めて面会を求めた。本野一郎外務大臣への面会を希望していたマサリクは本野一郎外務大臣が入院中である事を知っていたので、次官かそれ以外の者でも構わない、と言った。果たして4月19日にマサリクの外務省訪問が実現したが、面会に応じたのは外務次官"代理"であり、マサリク訪問への感心は低かった。残念ながら?、チェコスロヴァキア、チェコスロヴァキア軍団、マサリクの役割などが日本で認識されたのは、マサリクの離日後だった。2週間の滞日中、マサリクの外交目的は果たせなかったが、唯一の成果は竹山安太郎というマサリクの信奉者を残した事かもしれない。

1850年、トマーシュ マサリクはスロヴァキア人でスロヴァキアのコプチャニ出生の父ヨゼフと、チェコ人でフストペチェ出生(殆どドイツ化していた、との事)の母テレジエとの間に、モラヴィアのホドニーンに生まれた、と、しばしば言われる。ハプスブルク帝国解体に決定的な役割を果たす人物が、皇室領で生まれたのは皮肉である。

ハプスブルク帝国で「〇〇人」という時は二通りの意味がある。一つは土地を基準とし、もう一つは言語を基準とする。

ホドニーンの小学校ではチェコ語クラスとドイツ語クラスが分かれていて、マサリクの母テレジエによってドイツ語クラスに入れられた。母テレジエは長男が "旦那衆" の世界で身を立てる事を望んでいた為。その後、ブルノ古典学校におけるチェコ人神父プロハースカからの社外主義思想の影響とカトリックから疎遠に。ウィーン大学入学、"アカデミー協会" に入会し、その指導者として活躍、その頃からヴラスチミル(チェコ語で"愛国者"を意味)マサリクという名前を使い始めた。
1873年、 大暴落、ウィーン万国博(岩倉使節団の「米欧回覧実記」に詳しいが、同時期にこの博覧会を冷ややかに見ていた一人に16歳のジグムント フロイト(モラヴィア生まれのユダヤ人)がいた)、特に兵役についていた弟マルチンの死はマサリクにかなりの精神的ショックを与えた。
プラハの大学で員外教授という職を得たマサリクは、権威ぶらない姿勢で学生達の人気を獲得したが、ウィーンやライプツィヒのような比較的自由な学風で育ったマサリクにとっては、プラハは未だ権威主義的な空気が強く、古参教授へ臨んだ論戦が嫌われて、3年以内に正教授にさせるという約束が実現される迄に15年かかってしまった。

1891年3月の帝国議会選挙でマサリクは青年チェコ党から出馬、南西ボヘミアの都市選挙区で当選を果たし政治家マサリクが誕生、だが、暫くして政治家を離れ、大学に戻った。

実証史学を代表するヨゼフ ペカシュによるマサリクの歴史認識への批判、特に16世紀のフスの宗教改革における理念と、18、19世紀の民族再生期の思想家達の理念には大きな隔たりがある事をマサリクは無視しており、更にマサリクはチェコの宗教改革を過度に理想化している、という批判については、現在の多くの歴史家達もこの点ではペカシュの立場を支持している。

1899年4月1日に起きたヒルスネル事件後、マサリク名は有名となり、特にユダヤ人経営の界各地の新聞がマサリク達の独立運動に好意的な論調の記事を載せてくれる事になったという。

1900年、リアリスト党の結成。

チェコ人ナショナリズム主流の議論は「歴史的権利」に根ざしていた。であるなら、ハンガリー王国の「聖イシュトヴァーンの王冠」の元にある土地は明らかにそれにあたる。スロヴァキア地方はハンガリー王国の「歴史的権利」の元にある故に、チェコ諸連邦の「歴史的権利」の外にあった。ハンガリーによるスロヴァキアについての「歴史的権利」を乗り越える為にも、チェコ人とスロヴァキア人は「一つの民族」でなくてはならなかった。

帝国議会への復帰後、ボスニア ヘルツェゴビナ併合、ザグレブ裁判、等々のバルカン問題にも引き摺り込まれて行ったマサリク。マサリクの祖国独立構想は、もしオーストリア ハンガリーが敗北した時には「チェコ民族国家」を、またドイツも敗北した時には「歴史的領土にスロヴァキアを加えた国家」を獲得する、という二段構想であった。

1910年時点で米国には50万人のチェコ人と28万人のスロヴァキア人移民が住んでいたが、大戦直前には多くのスロヴァキア人が更に移住したので、おそらくは100万人以上いただろう。マサリクの妻がアメリカ人であった事も資金集めに役立った。1916年2月頃にチェコスロヴァキア民族会議が形成され、議長にマサリク、副議長にデューリヒとスロヴァキア人のミラン ラスチスラフ シュチェファーニクの二人が、そして書記長にエドバルト ベネシュが就任した。国家形態については、マサリク自身は共和制を支持していたが、場合によっては立憲王制でもよいと考えていて、デンマークか英国の王室から国王を選ぶ事を攻略していた。

1917年のロシア2月革命、チェコスロヴァキア義勇軍設立→ チェコスロヴァキア軍団(ラテン語でレギオ、チェコ語でレギエ)へ、ズボロフの戦い、、と歴史は動く。チェコスロヴァキア軍団の遠征がしばしば「アナバシス」と呼ばれるのは、紀元前401年から399年にかけてギリシア傭兵軍がペルシア王子キロスにしたがって小アジアへ向かった遠征に倣っている。

1918年4月20日に横浜港を発ったマサリクは4月28日にヴァンクーヴァー上陸、5月5日にシカゴへ。シカゴはチェコ人、スロヴァキア人移民の中心都市であり、マサリクによればプラハについでチェコ人の多く住む都市だった。マサリク訪米の目的は、軍団輸送のための船舶確保、独立についての米国政府の支持獲得、だった。在米チェコ人、スロヴァキア人からは大歓迎されたマサリクであったが、現状ロシアのボルシェヴィキへの消極的容認を図ったマサリクに対する米国政府筋は歓迎ムードではなかった。マサリクはボルシェヴィキシンパだと見なされてしまい、米国政府内で少しずつ広がり始めていたハプスブルク帝国解体論にもブレーキをかけることになってしまった。英国の民族会議承認、6月3日にランシング国務長官との面会、6月19日に漸くウィルソン大統領との会見。軍団が連合国の武力干渉の一躍を担うという方向で進み始めていた情勢はマサリクの意図を超えた方向で進み始め、それを利用しようとするベネシュと、あくまで輸送に拘るマサリクとの間にも齟齬が生じ、結局マサリクは「現実」を受け入れる事になるが、その後も様々な形で唱えられた対ソ武力干渉については、その都度否定的な立場をとり続けた。また、スロヴァキアを含むチェコスロヴァキア国家の独立を主張して来た
マサリクと在米スロヴァキア人移民との間で調印されたピッツバーグ協定がその後のチェコスロヴァキア政治にもう一つの問題を投げかけた。スロヴァキアの立ち位置につき、何度も紆余曲折が繰り返され、その後もチェコ人とスロヴァキア人の対立が高まる毎にこのピッツバーグ協定は持ち出される事になる。

1918年10月14日、パリにいたベネシュが急遽、臨時政府の樹立を宣言。
1918年10月18日、米国にいたマサリクが独立宣言を発した。
1918年10月28日19時、プラハの公会堂に集まった民族委員会がチェコスロヴァキア国家の独立を宣言。
1918年11月14日、大統領に選出されたマサリク、
1918年11月20日、ニューヨークいたマサリクが祖国への帰国の為にホテルを出ると米国海軍が新大統領に敬意を表した。東京では警察の取り調べを受け、米国でも当初は「ボルシェヴィキのシンパ」として疎んじられたマサリクは、今や一国の元首として見送られた。
1918年12月21日、プラハに帰還したマサリクが行った短いスピーチは感激と涙の中で声にならなかった。新首相クラマーシュは長い歓迎演説を行い、二人の老政治家の抱擁は感動的であった。が
、やがて二人は対立する事にもなる。延々と続いた歓迎行事の後に闘病中の妻シャーロットを病院に見舞ったが、長男ヘルベルトが戦病死し、国外に夫マサリクが去られた中で孤独と警察の迫害の為に鬱病となったシャーロットは1923年にこの世を去るまで健康を回復する事はなかった。

1929年、80歳(1850年生まれ)間近のマサリクは、両大戦間期のチェコ文学を代表する作家カレル チャペクに再度その生い立ちを詳しく語り、それはチャペク代表作の一つ「マサリクとの対話」の最初の部分として出版された。これらの回顧は、その後のマサリクの伝記作家の拠り所となっている。マサリクは自分の生い立ちを繰り返し説明する必要があった。自分はチェコ人なのか?スロヴァキア人なのか?それともドイツ人なのか?

1935年12月14日、「祖国」を「獲得」したマサリクは、85歳にして政界から身を引き、マサリクの腹心ベネシュが第二代大統領に就任。
1937年9月14日、マサリクは87年の生涯を終え、以降プラハ西方約40キロにあるラーニの館に眠る。

マサリクの死後にチェコスロヴァキアでは300万人のドイツ人追放という悲劇が起きた。

マサリクは1915年のキングズ カレッジの講演で、
「歴史は統合の過程であると同時に分解の過程でもあり、ヨーロッパは民族国家へと分解する一方でそれらを単位とする連邦を形成しつつある」と述べていたが、時代は流れ、
1993年1月1日、チェコスロヴァキアが分裂、チェコ共和国とスロヴァキア共和国がそれぞれ誕生。
スロヴァキア民族主義、「もうプラハはたくさんだ」「もうマサリクはたくさんだ」、、というスロヴァキア国民党の支持者達。マサリクは「両者がチェコスロヴァキア民族である」と唱えていたので、スロヴァキア民族主義者達にすれば、マサリクはプラハによるスロヴァキア支配の象徴でもあった。。。。という見方もあり。

さて、
本書は1993年7月に発行されていますが、
それまで発展して来た欧州共同体(EC)を基礎に、マーストリヒト条約に従って創立されたとのEUが同年1993年11月が発足し、現在に至ります。EUに加盟している国とそうでない国、NATO に加盟している国とそうでない国、、目まぐるしい歴史は今後も続いて行きますし、我々がこの世にいなくなっても、引き続き時代は流れるのでしょう。
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