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2022年04月17日06:30

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風林火山伝 第2部 第1話 謎の金の仏像

元亀4年(1573年)3月9日、武田信玄は織田信長との一騎打ちに打ち勝ち、信長を討ち取った旨を宣言したのであった。しかし、その場には信長の遺体はなかったのであった。信玄は雷にて骨もろとも木端微塵となり、跡形もなく消えてしまったと信じていた。そこに残っていたのはひとつの小さな金の仏像だけで、それは本能寺の金の仏像であった。また、雷の落ちた地面には大きな穴が開いていたのであった。

武田、浅井、朝倉連合軍4万5千、松永軍5千をあわせた5万の兵は、京の足利義昭のおわす二条御所に向ったのであった。

一方、織田の残存兵2万5千は信長の嫡男 織田信忠を総大将として、伊勢長島に向け兵を引いた。信忠は16歳であった。そして柴田勝家が総大将の補佐をしていた。

大和の筒井順慶は本拠地 筒井城に戻ったが、織田にそのままつくか、武田に寝返るか迷っていたが、松永が武田についたため、とりあえずは織田側についた。

3月9日、夕刻、武田、浅井、朝倉、松永連合軍は二条御所に到着し、武田信玄、浅井長政、朝倉義景は将軍 足利義昭に拝謁した。

そして、信玄は「正親町天皇の織田信長追討の綸旨通り、見事、織田信長を討ち取ましてございます。」と義昭に報告した。

「信長を討ち取った証はあるのか? 世にその証を見せてみよ。信長の首がぜひ見たい!」と義昭は期待をこめて言った。

「恐れながら、信長の首はございません。信長は奇妙にも天から天誅が下り、雷が信長を直撃し、木端微塵となり、信長もろとも消え去ったのでございます。」と信玄は言った。

「信長の首がなけれな、信長を討ち取ったとは信じがたい。ひょっとして、信長はまだ生きているのではないか?」と義昭が疑いながら言った。

「あの時、信長と一騎打ちにて、この風林火山の軍配で信長の首を刎ねたことは確かに今でも記憶に残っております。ご覧ください、この軍配に信長の血がついております。」と信玄が言った。

「あの時、雷が信長目掛けて落ちたすざましい光景はわたくしめも確認しました。あの状況では信長の首を持ち帰ることは無理でございましょう。」と長政が言った。

「信長の首の証が確認できないからには、信玄殿の暴言という可能性もあります。おそらく信長は秘策を使い、信玄殿の目をごまかし、どこかで生きている可能性があります。この義景めが本当に信長が亡き者になったのか検証しとうございます。」と義景が言った。

「義景殿、何を申すか! 確かに信長はわが手で討ち取った。この風林火山の軍配を身よ、信長の血がついておる。」

「信玄殿!それはお主の血ではあるまいな!わしは信長が秘密の抜け穴を使ってどこかで生き延びているような気がしてならぬ!たしかそこには大きな穴があったことは知っている。遺体が確認できぬ以上、その可能性はある!それにしても本能寺の金の仏像がそこに残されているのが不思議である。その金の仏像は持っておられるか? 拙者にみせてくれまいか?」と義景は言った。

「おそらく信長は本能寺の金の仏をお守り代わりに隠し持っており、信長の命に代えて大事なものであろう。これを信長を討ち取った証として認めてもらう訳はいかないかな?」と信玄は金の仏像を義景に見せながら言った。

「その金の仏像と信長とどういう関係があるというのか?」と義景が言った。

「ご覧くだされ!金の仏像の後に、祝 天下布武 本能寺 日承上人と書かれております。おそらく、この金の仏像は、亡き信長が、永禄11年(1568年)9月に上洛を果たした時に、本能寺に立ちより、日承上人が亡き信長殿に、京上洛のお礼として手渡したのでございましょう。」と信玄が言い、義昭の前に差し出した。義昭は金の仏像を手にとり、じっと見つめていたのだった。



                                  つづく







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