「…
それぞれの個人の人生が一度きりしかない、という根源的な事実によって、
私たちはデマに抗うことが難しくなっている。
…
社会全体のなかではわずかな確率でしかないものが、それに当たったときには、
私たちは私たちの人生のすべてを差し出さなければならない。
この、全体的な確率と、個人的な人生との、極端な非対称性のことを、
いつも考えている。
…
私たちは、確率というものと共に生きていけるほど、賢くはないのだ、と思う。
まだ人類はそこまで進化していない。
自分たちや、愛する家族がもしウィルスに感染して死んでしまったら、
それは私たちにとっては、すべてを失うことと同じである。
…
私たちは、確率の数字では「癒されない」のだ。」
(岸政彦のBlog 2020.03.03投稿「確立とともに生きる」
http://sociologbook.net/)
---
橘玲だったかの本にも、「人間は因果関係は理解できるが、確率は理解できない」というようなことが書いてあった気がする。理解できないというよりは、頭では理解できるが本能に(まだ)組み込まれていない、ということだろう。
この話は新型コロナの話と、岸政彦自身の不妊治療の体験を例に語られている。確率がいかに低かろうと、そこに当たってしまえば「現実に」片方はすべてを失い、もう片方はすべてを獲得することができるのだ。不妊治療にかけられるあらゆる意味での負担を肌で知っているからこそ、その「宝くじ」を買うことに抗えないことはよくわかるのだろう。それが「愚か者に課せられる税金」といかに揶揄されるものだったとしても。
結局のところ、答えはないという答えに行き着く。いつものことだ。踊りは止まないだろう。それは儀式のようなものであり、だから「踊る」と言うのかもしれない。確かに宗教的にすら見えるが、はたしてなにを讃えているのだろう。
ログインしてコメントを確認・投稿する