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2019年06月23日02:03

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権力のない場所 小さな革命とその時々について。

   
 権力のない場所 小さな革命の時々について 

お金持ちの人が、
持っている
偉さがあったとしたら、
お金によって、
人を使って、
または、客として
サービスを受ける総体によって、
その存在が
その自由度の使う側であることの
総体によって、
「偉い」になっているのかな。

権力が
貨幣の制度、
国家によって、
通貨発行権を有する国家によって、
作られた現実であることが、
わかってしまうね。

すごく、
偉くなっていて、
時の重み、
+ お金による
自由度、使う側の総体、
サービスを受け、
人の使う側の総体が
生殺与奪を握り、
権力を握っている。

軍隊の起源が
財の蓄えられる
ことによる警備などから、
あったと、しよう。
警察、軍隊、
やがて、決まりごと、
法、
財をめぐる
分配とそれを
めぐる政治、
政治的なたたかいは、
今でもあり、
結局、
その「偉さ」が、
あったとして、社会的な関係性に
おいて、だけど、
時系列的な存在論として、ね。

自分を
生きて、
それらがあったとしても、
自分のやるべきことを、
やる人生が
各自で
保障されるべきだな。

なにかを、
大きく、
動かせる人、と、いうのは、
順番がまわってくれば、
くるかも知れない。

ただ、
富と権力が
相対的に
「貨幣による劇場」として、
外部から、眺めた場合に、
わたしは、あなたとは、関係ないの
に、
なんで、あなたは、わたしに、影響するのか、と、いう関係と孤絶の問題が、
生殺与奪を握っていて、
関係したみたいに、
電車の車内で、
プレゼンスを
きかされた時に、
わたしはまったく、
関係ない、と、一時的に防衛の
ために、
プチ・アナーキズムになることは、
いけないことだろうか?

言っちゃ、わるいが、
あっちの壮大な物語に、
つき合ってる暇はないのに、
いちいち、
変な、プレッシャーかけられても、
言うこと聞くよな、やつらじゃないぞ
みたいなのは、
あるかも知れない。


自分の仕事さえ、してれば、
本当のね。
そういった、
貨幣の劇場にからめとられない、
純粋な人類に
なる権利を主張したりすると、
やたらと、弾圧されたり、
軍隊出てきたり、するけれども、
秩序は必要だけれども、
過剰に
秩序を
求められるのなら、
一時的に
防衛のために、
小さな、プチ・アナーキストになるのは、あって、いいし、

そもそも富の起源と、暴力は結びついているのだから、
暴力を、その全歴史を否定する意味で、
一時的に、システム否定、でね。必ずしも、プチ・アナーキズムは、罪では、ないと、思うよ。

なんで、崇高さと暴力が
結びつくのか。

おそらく、秩序を司る、からだね。
富と権力、生の拡張、
統治、
暴力と崇高なものが、生殺与奪で、
「偉い」人、を、つくっている、としたら、そんな悪い人、否定してもいいんだよ。

それが、
日常、起こる、
権力の否定、が、起こるなら、
ディオゲネス、とか、
結果的に、平和主義者だったのかも、知れないね。


一時的にプチ・アナーキズムが
人において、もたれて、管理、
運営側にとっては、
いつ、起こるか、わからないし、
脅威ではあるな。
すなわち、管理の一元化は
起きていないし、
富と権力の暴力の歴史を否定し、
自分のやるべき事に、きちんと、
集中するために、
プチ・アナーキズムが
労使関係の国家の、
貨幣発行権を持ち、
支配の経済学の外で、
自由に相互通行できること。
信用によって、
いわば、超能力的にか、
ポスト経済が
見えたりもするかな。

動員できなくなると、
軍隊を導入してくる歴史が
自由を束縛し、
今、を、秩序あるものに、したり、
警察と軍隊は、秩序にとっては、
やはり、法の元に、必要で、あるが、

国家は
悪い面と、いい面をもってきた。

がんばったものが、

今、を、秩序あるものに、したり、
警察と軍隊は、秩序にとっては、やはり、法の元に、必要で、あるが、
因果応報的に、いい暮らしをでき、
がんばらなかったものが、
辛いおもいを、する。
しかしながら、
がんばれない、人や、
働く者、一番、といった
「働く人間帝国」は、
全体には、
適用できない代物であることは、
人間的現実や、
いわば、
経済の囲い込みによる、
物質的条件の、
低い暮らしから、
スタートしたりして、
「再生産」させられたり
いろいろ、指摘され、
改善されてきたとはいえ、
人間、それ自体ではなく、
制度的囲い込みに、に、よる、
街の「作られた貧者」たちは、
自分が社会に
貢献出来ない、
ダメな人間だと、
経済的な囲い込みに、
よって、いやがおうでも、
認識させられ、
人間自体が、
かえりみられることなく、
軍隊や警察によって、
厳重に囲い込まれながら、
社会において、
追い込まれていく。
この現象学は何か。

ぼくは、ここで、
「貧者」は作られている、
と、言いたいのだ。
「貧者」は、制度的な囲い込みによって
作られた「現実」なのだ。

ぼくは、
貧者は作られているのでは、
ないか、と、
おもった。
一般的に
お金がないと、なにも、できないし、
のたれ死んでいかないと、
いけない、
反のびのび、システムで、は、生きてはいけないのだが、
なぜ、自分に偽らざるように、
自然に生きてはいけないのだろうか?
「経済」という価値観に
支配された
「体制」が
「貧者」を作り上げている。
しかしながら、社会が変わってしまえば、「貧者」ではなくなるのではないか、そう、思えてならないのだ。
ルソーじゃないけれど、
自然状態のポスト経済みたいな、
新しい自己の精神の生態が
守られ、
自己の保存と、
維持、生命の躍動せる、
富と権力、いわば、
暴力の歴史の外で、
のびのび暮らせる明日が
あるのではないか。

そんなことを、
思うことも、可能だ。
ディオゲネスのような人なら、
労使関係に悩んで、
プチ・アナーキズムすら描けない、
賃金労働の保持を、
しなくて、いいのだから。

どちらが、いいか、とか、

ディオゲネスもら施しを、もらって、暮らしている、とか、

いろいろ、あると思うけれど、
いつの間にかに、飼われていた事実を、
自らに認め、認識して、
反のびのびの富と権力による、
動員の歴史、今を覆し、
わたしでいることが、
時々、であれ、
自由に、
のびのびと、
できたら、いいのではないか。

民主主義が
徹底されると、
プチ・アナーキズムが
一時的に、ぽこん、ぽこん、と、
何処からでてくるか、わからない。
飼われない時間を過ごすことは、
飼われていく社会的な
「言うことを聞く丁寧な時間、上下関係あり。」をしていくためには、
必要なのかも知れない。

お金、貨幣は、
合理的な支配手法である。
一秒だけでも、すべての貨幣が無効になる法律をつくったら、
現代アートですら、あるかも知れない。
現代アートと、法だって?

アートの余地すらない、
法だって?
ユニークな法は、
かつて、あったかも、知れない。

ふだんは、従順だが、
時々、プチ・アナーキスト。
それはありかも。

帰ってくるからね。
芸術家は
その本来は
自由な楽園にいるべきなのに、
芸術さえ、許されないなんて。
経済の体制化によって!

かくして、
管理側は、
時々、
プチで、アナーキズムが
起きるから、
気が気でないだろう。
平和的なアナーキズムとは、
富の収奪を起源とした、
数々の暴力の歴史を
否定するところにある。

生きていて、
生殺与奪を
もっている人にかみつくのは、
生きてる人間の権利である。

ただし、
帰ってこよう。
プチ・アナーキズム、で、
一時的に革命して。

小さな革命、である。
それが、社会を変える新しいゲリラなのである。

生成、社会、自由、
半ば自治、
一人、一人が社会にからめとられない、自由に生きていていい。

それは、
つまりは、
相手の自由は、
うざいかも知れない。
うるさい、とか、
なにも、してねぇ、とか、

だから、
自由至上主義は、
他の人の自由をとりしまりたくなる
暴徒すら、うみだせるだろう。
だから、ちいさくて、
一時的でいい。
プチ・アナーキズム。
それくらいが、
ちょうど、いい。アートな時間を持とうね。財産築いたら、好きなことだけ、
迷惑かけず、に、やれば、いいね。

ただ、お金がなくても、
お金がないなりに、
好きなことをやって、
暮らしていきたいね。
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