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2018年07月13日09:33

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「現存在」と「無」

ハイデガーの「現存在」という言葉にはかなり抵抗がある。第一部・第一篇・第一章・第九節の冒頭を引用しよう。

【その分析が課題になっている存在者は、そのつどわれわれ自身なのである。この存在者の存在はそのつど私のものである。この存在者の存在において、この存在者はそれ自身おのれの存在へと態度をとっている。この存在の存在者として、この存在者は、存在しなければならないというおのれの固有な在り方に委ねられている。‥‥】

少し強引な気がする。「存在しなければならないというおのれの固有な在り方」って言ってしまっていいのか? 存在と非存在の両極がなければ、存在してると言っても、実はなにが存在しているかは分からないのではないか。

禅仏教においては、認識できるものはすべて他者としての存在者でしかない。であるから、「私」と言われているもののほとんどの部分は他者としての存在者である。したがってそれらを除外していけば何も残らない。何も残らないから、実存の中心は「無」と呼ばれている。「無」は有るとも無いとも言えないものである。(西田幾多郎は「無の場所」とよんでいる。) ただ、この世界がほかならぬ私から開けていること、いわば「この世界が私の世界である」であることを保障しているものである。

このような視点から見ると、ハイデガーの「現存在」は「私」を言い換えただけではないのかと思えてくる。

禅仏教においては、認識できるものはすべて他者としての存在者でしかない。であるから、「私」と言われているもののほとんどの部分は他者としての存在者である。したがってそれらを除外していけば何も残らない。何も残らないから、実存の中心は「無」と呼ばれている。「無」は有るとも無いとも言えないものである。(西田幾多郎は「無の場所」とよんでいる。) ただ、この世界がほかならぬ私から開けていること、いわば「この世界が私の世界である」であることを保障しているものである。

このような視点から見ると、ハイデガーの「現存在」は「私」を言い換えただけではないのかと思えてくる。
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