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2018年07月12日14:46

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存在しない存在者は存在するのか?

今回のタイトルは単なる言葉の遊びである。ハイデガーの「存在一般」という言葉を考えているうちに、このような軽口をたたきたくなったのだ。

「山が存在する」、「木が存在する」、「川が存在する」‥‥。言葉上で見る限り、「存在一般」というものがありそうな気がする。"山"+"存在"で「山が存在する」するということになるのだろう。

問題にしたいのは、山、木、川に共通する、しかし山、木、川のいずれにも依存しない「存在する」ということが抽出できるであろうかということである。私にはどうしてもそのような直観が得られないのである。

「山が存在する」と「木が存在する」はそれぞれが単純な事実であり、それらについて共通点があるとすれば、それはどちらについても、それらの存在を「私が認識している」ということしかないのではないだろうかと私は考える。
もし「存在一般(ある)」というものがあるのであれば、その対極に「非存在一般(ない)」が対等なものとしてなければならないだろう。

しかし、「ある」と「ない」は対極の事象としては決して対等ではない。野矢茂樹氏は著書(どの本であるかは失念した)で、「『馬がいない』という絵は描けない」というようなことを述べている。野原に牛や豚はいるが馬はいない、そのような絵を描いたとしても、それは「馬がいない」という絵ではないという意味である。そこには、ウサギやカメレオンや亀もいないのであって馬だけがいないわけではない。単純に「馬がいない」だけでは意味をなさないのである。つまり、「馬がいない」が意味をもつのは、そこに「馬がいる」ということが前提になっている。「馬がいない」というのは、「馬がいる」という事態が不成立であるという意味しかないのである。

なにをいいたいか。例えば、丘の上に馬が立っていたとする。そこでは馬の存在は「丘の上に馬が立っている」という具体的事実として出来しているわけである。存在は必ず具体的な事実として現れるのであって、存在そのものが表れているわけではないと言いたいのである。次の日、そこに馬がいなかったとする。その場合は、「丘の上に馬が立っている」という事態が成立していないと見るべきなのではないかと言いたいのである。

「丘の上に馬が立っている」、「はるか向こうに山が見える」、「庭に木が生えている」等々、それらはみな別個の具体的事実であって、それらに共通する「存在」というものはありはしない。それらが共通するものがあるように感じるのは、すべて「私」が認識しているということだろう。あえて言うならそれが「存在一般」の正体ではないだろうか。
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