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2018年06月29日06:56

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よしあし

 「蘆」を私は「あし」と読みますが、「よし」でもこの漢字は変換候補に出てきます。昨日のNHKの「にほんじんのおなまえっ!」では「あし」だと「悪し」に通じるから「よし」と読み替えた、と説明していました。「なるほど」とは思いましたが、それならなぜ最初からあの植物をわざわざ「あし」と呼んだのでしょうねえ。日本人が「蘆」を命名した頃には「あし」には「悪し」の意味はまだなかったのかな? あるいは「悪し」に「(今で言うところの)ワルイ」という意味がなかった?

【ただいま読書中】『悪党召し捕りの中世 ──鎌倉幕府の治安維持』西田友広 著、 吉川弘文館、2017年、2800円(税別)
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 中世までの日本では「治安維持」は権力者の「独占」でも「義務」でもなくて、「権利」または「利権」でした。それが変わり始めたのが鎌倉時代からなのだそうです。
 鎌倉時代に「悪党」が各地で活動します。これは、旧来の支配者側の荘園領主と敵対する新興武士勢力のことですが、ややこしいのは、荘園領主側も悪党と同様の自警組織を持って対抗していたことです。つまり簡単に「悪党=悪者」とは定義できない。
 ともかく、支配体制に反逆する人たちは「悪党」で追捕(ついぶ)の対象とされました。荘園領主などは、自警をすると同時に、朝廷や幕府に「悪党をなんとかしてくれ」の訴訟を多く起こしています。当時治安維持の行為(犯罪者の逮捕・処罰など)は「検断」と呼ばれ、公的な地位にある役人だけではなくて、一般人も検断を行っていました。朝廷による検断は「追捕官符(ついぶかんぷ)」と呼ばれるシステムで、朝廷は国司に対して犯人の追討・追捕を命じる官符(勅符や宣旨を含む)を発給します。平将門の乱や藤原純友の乱でこのシステムが発動されました。しかし国司の力が落ちてくると、朝廷は武家の棟梁に直接追捕官符を下し、京から直接派遣するようになります。その例が、後白河院の意向を受けて六条天皇が平重盛に発した「東山道などの山賊追討の宣旨」です。源頼朝ははじめは「反政府軍」で追討の対象でしたが、やがて「政府軍」になるとこんどは追討使として平氏を滅ぼすことになります。奥州合戦では、後白河院は追捕官符の発給を拒否しましたが、頼朝はかまわず出兵、奥州平泉氏が滅亡した後、出兵の日に遡って追捕官符が発給されて体裁を整えることになりました(つまり奥州合戦は、幕府と朝廷の政治的な戦争だった、と言えます)。朝廷(=旧体制)とは一線を画した形で治安維持を行うつもりの頼朝は、「守護」と「地頭」によってそのシステムを構築しました。ただ、内乱の中で力をつけた武士たちには頼朝とは違った思惑もあったようで、「国家」ではなくて自分の領地支配の一つの方法として「検断」を行いました。
 承久の乱によって朝廷は自前の武力を失い、幕府の治安維持機能の重要性は高まります。大宰府に来訪したモンゴルの使節を追い返し、戦争が必至となったのを受けて、鎌倉幕府は国内の治安引き締めのため悪党対策を強化します。御家人だけではなくて、本所一円地(寺社領や公家領)にも動員をかけ、寺社には祈祷を命じたことから、幕府は「日本全体」に責任を持たなければならなくなります。逆に、東大寺や醍醐寺など「本所」の内紛で、対立する勢力それぞれが悪党などの外部勢力を引き込むことで紛争が拡大し、本所の方が幕府の介入を望むようにもなりました(本来幕府は「本所には不介入」の基本方針だったのですが)。そのため本所は、直接六波羅に悪党召し捕りを訴えるのではなくて、朝廷に対して「朝廷から幕府に悪党召し捕りを命じるように」という訴訟を起こすようになります。なんだか権力がねじれています。
 本書では、史料に広く詳しくあたって、実際に起きた事件についていろいろ具体的に紹介しています。著者の苦労が忍ばれますが、おかげで歴史について立体的なイメージを掴むことができます。悪党を召し捕るためには悪党と同等あるいはそれ以上の「力」が必要です。また、訴訟でお互いのことを「お前が悪党だ」と呼んでいる例もあります。「悪党」を単純な「盗賊の群れ」などと見るのは間違いのようです。「都鄙名誉の悪党(都でも地方でも名高い悪党)」が何人か紹介されていますが、その実態は様々です(この中にはもちろん有名な楠木正成も含まれています)。
 幕府は「日本全体」に責任を持つべき立場になっていましたが、建前上その支配権は「御家人」に限定されていました。そのため治安維持に動員される御家人には過重な負担に対する不満がたまり、きちんと治安維持がもたらされない(御家人と本所から成立する)社会全体には不満が渦巻くことになり、それが幕府滅亡へとつながっていった、と著者は推測しています。つまり、極論するなら「悪党が鎌倉幕府を滅ぼした」ということにもなりそうです。
 「治安維持」は建武政権でも重要なテーマで、全領主動員体制が採られました。室町幕府では守護の権限を鎌倉よりも拡大し、敵方所領の没収・配分もできるようにしました。これはやがて、戦国時代へとつながっていくのでしょう。
 「悪党(またはそれに対する「検断」)」という切り口から見ると、日本史には新しい側面がありました。こういったことは学校では習えないのが、残念です。


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