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2018年05月27日05:27

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マクタガートの時間の非実在性について考えてみた

マクタガートは、「時間はB系列だけではとらえきれない。」と言う。しかし、物理学的にはB系列で事足りる。B系列だけでは不十分というのは、われわれが時間というものを動的なものとして把握しているからだろう。それで、A系列とB系列を併用することになる。しかし、それだとB系列上のどの点も同じ資格で、「今」という時点を要求するようになる。そこから更に、各「今」を"過去-今-未来"に分割するという無限後退に陥ってしまう。

問題のありかは、B系列というものを考えた時に過去や未来が実在のものであると考えてしまうことにあるのではなかろうか。B系列は現象を各時点で静的に把握するためのツールでしかない。ところが時間軸を縦・横・高さと同等の座標として考えると過去や未来が実在しているかのように錯覚してしまう。あくまでこれは現在において、過去も未来も静的に把握するためのものであり、すべてひっくるめて「現在」の中にあると考えなくてはならないのではなかろうか。

B系列というのは、時間軸の各点に三次元静止空間が張り付いているようなイメージだと考えられる。これを頭の中に描くのは難しいが、一次元落としてパラパラ漫画のようなものとして考えてみよう。どの部分でも取り出してパラバラとやると動き出す。この「パラパラ」がA系列であると考えられる。

過去も未来も現在と同等に「今」であることを主張し、それぞれの点がさらにA系列として動き出す、というのは錯覚であると私は考える。パラパラという行為は端的な「今」しか行えないのであって、過去や未来が勝手に動くことはないのである。よく言われることであるが、過去も未来も「今」想起しているのであって決して実在ではないということに落ち着くのではなかろうか。


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