mixiユーザー(id:64140848)

2018年05月11日19:03

85 view

真理は現前している (3)

「あるがまま」ということについてもう少し考えてみたい。
「善の研究」の第一編第一章「純粋経験」の冒頭は次のような文言で始まっている。

≪ 経験するといふのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋といふのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫(ごう)も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいふのである。≫

上の考え方は明らかに「あるがまま」の視点に基づいている。問題は「思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいふ」というところだろう。

「善の研究」の文庫版P.24には次のように述べられている。
≪ それで、いかなる意識があっても、そが厳密なる統一の状態にある間は、いつでも純粋経験である、すなわち単に事実である。これに反し、この統一が破れた時、即ち他との関係に入った時、意味を生じ判断を生ずるのである。≫

例えば、うどん好きの人が浪花屋でうどんを食べていたとする。浪花屋のうどんは関西風ですごくおいしい。汗をかきながら一心不乱にうどんをすすっている時の状態は純粋経験の只中にいるとして間違いはない。やがてうどんを食べ終わり、その人はふうっと息を吐きながら、「やっぱり、浪花屋のうどんは世界一美味い。」と満足げに言う。西田のいうところによると、その時「浪花屋のうどんは世界一美味い」という意味が生じ、統一が破れていることになる。はたしてそうだろうか。

私見では、「浪花屋のうどんは世界一美味い」と考えること、発言すること自体は経験であり、それを純粋経験と区別する理由は見当たらない。ただし、「浪花屋のうどんは世界一美味い」という意味は当然経験そのものではなく、思考の結果生まれた命題であり言語による世界の再解釈である。

禅的視点から見た場合問題となるのは、「浪花屋のうどんは世界一美味い」を論理的に正しい世界記述としてみなすことにある。うどん好きの人は、熱々のうどんを食べている時、うどんの美味しさを十全に味わっているその経験は完全でなにも欠けているものはない、真理が現前しているというのはそのことであり、それは言語化できない。「浪花屋のうどんは世界一美味い」というのは満足感を表すための感慨をのべたまでであり、この人の行為には禅的に見ても何ら問題はない。
「浪花屋のうどんは世界一美味い」という言葉を聞いて、それを真実だと思い込む態度には問題があると言える。

西田は経験としての思考と思考の結果である判断を混同しているように見受けられる。思考そのものは常に経験である。問題は純粋経験とそれ以外の経験を倫理的な基準によって区別しようとすることにあるのではないかと思われる。

1 4

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する