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2018年05月06日07:33

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伝言ゲームと誤解と

 『歎異抄』で、この本の著者だとされている唯円は師匠の親鸞の教えが人びとに真っ直ぐに受け取られず「異義」だらけとなっていることを嘆いています。親鸞は、説法だけではなくて、教行信証などできちんと自分の考えを書き残していたにもかかわらず、「異義」の蔓延を防止できなかったわけです。これは「聞く側」が「自分の器」に合わせて理解することしかできないし、さらに「伝言ゲーム」もあるから仕方がない現象なのかもしれません。
 ただそうすると、テキストをきちんと書き残さなかった仏陀やキリストの「教え」は、どのように「異義」にならずに伝えられたのでしょう? それとも現在に残っているのは異義だけ?

【ただいま読書中】『歎異抄』阿満利麿 訳・注・解説、 筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2009年、1000円(税別)
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 高校の日本史だったか倫理社会だったかで「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」を習ったときは衝撃でしたね。私の“序列"だったら「善人>悪人」なのに親鸞は「悪人>善人」と言っているように聞こえましたから。しかしその内容を聞いたときにさらに「衝撃」が。「この世に善人なんかがいると思っているのか? お前は自分が善人だと思っているのか? ばーか」と親鸞さんが言っているように思えたのです。たしかに阿弥陀様の本願は「万人を成仏させる」であって「修業をしたら救ってやる」という条件付きではありませんからこういった“逆説"も成立するのでしょう。「善人」は「自力」を信じているけれど「悪人」は「他力」でなければ救済がもたらされませんし。もっともこれも私の「誤解」なのかもしれませんが。
 「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり」で始まる第四章は、言葉の美しさが際立ちます。まるで詩のようで音読をしたくなります。
 第五章の「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず」や第六章の「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」のレトリックは強烈です。というか、最初から驚愕を狙っての言葉遣いだろう、と私は想像していますが。
 そうそう、「悪人が救われるのはおかしい。善人こそが救われるべきだ」と批判する「真面目な信者」、「悪人が救われるのなら、あえて悪行に走ろう」とする「本願ぼこり」、この両者とも本書では「異議」として強く批判されています。善悪関係なく、自分の意思で救済の形が選択できる、とすること自体が「他力本願」の否定ですもの。


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