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2018年05月02日21:48

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二刀流

 大リーグに行った大谷選手が「二刀流」でアメリカでもファンの目をまん丸にし心を鷲づかみにしています。
 ただ、「投手」としては先発投手としてきちんと役目を果たしていますが、「野手」としては守備についていないのが私にはちと不満。もちろん疲労のことを考えたら指名代打になるのは当然の選択ですが、彼は外野手としても一球の、もとい、一級の能力を持っているのですから、それを見られないのが残念なのです。

【ただいま読書中】『図書館と江戸時代の人びと』新藤透 著、 柏書房、2017年、2600円(税別)
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 「図書館」は文明開化の一環として明治時代に日本に導入されました。しかし、その前から「図書館に相当する施設」が日本にあった、と著者は述べます。
 聖徳太子の時代、大きなお寺には「経蔵」が付設していて、大量の経典や仏書が保管されていました。利用者は非常に限定されていますが、私設図書館と言えそうな施設です。大宝律令には「図書寮」が規定されていましたが、写本製作と保存に力点が置かれていました。ただ、目録が残っていないため、実際にどのような蔵書があったのかは不明です。朝廷ではなくて天皇家の私的な文庫もあります。その代表は正倉院です。平安時代には国風文化が栄えるのにつれて貴族でも書籍を収集する人が増え、公家文庫が発生しました。菅原道真は「紅梅殿(こうばいどの)」を設け、一門の子弟にも公開していましたが、大宰府に左遷されてから蔵書は朝廷に没収されてしまったようです。
 中世ヨーロッパの修道院で写本作成と保存が熱心におこなわれていたことや、現在のアメリカで大統領がやめたら自分の文書館を建設して寄付することなどを連想しながら私は日本の歴史を見ていました。
 武家が力を持てば当然のように武家文庫が登場します。代表は金沢文庫ですが、本書では金沢文庫に先行する名越文庫が紹介されます。足利学校にも図書館が作られ、江戸時代の享保十年(1725)の目録では、国書24部(125冊)・漢籍256部(2056冊)・仏典221部(714冊)を所蔵していたそうです。
 徳川家康は学問振興に熱心でした。本人が読書好きということもあったようですが、戦国時代を終わらせたあとの天下を保つためには学問の力が大切と思っていたのでしょう。本を集めるだけではなくて自身でも出版事業を興し、江戸城内には富士見亭文庫、隠居所の駿府城内には駿河文庫を設けました。秀忠までは文庫は将軍の私的な書庫でしたが、三代将軍家光は富士見亭文庫を幕府の施設である紅葉山文庫に発展改革させました(ただし「紅葉山文庫」と呼ばれるようになったのは明治からで、江戸時代には「御文庫」でした)。江戸城は何度も火災に見舞われましたが、江戸城吹上地区の西側にあった紅葉山文庫はずっと無事でした。良い場所を選んだものです。
 紅葉山文庫の蔵書は、購入・写本などの“正規ルート"以外に、蔵書家の罪人から没収するという本の増やし方もありました。管理をするのは書物奉行という正規の役人です。
 幕府の昌平坂学問所や各藩の藩校にも「文庫」がありました。ただ、明治の廃藩置県で多くの藩校は閉鎖されそれに伴い書庫の本は散逸してしまいました。もったいない。それでも救われた書籍は文部省の東京書籍館(しょじゃくかん)に集められ、この施設はのちに帝国図書館、現在は国立国会図書館になっています。
 江戸時代に読書するのは、公家や武士だけではありません。では庶民はどうやって本を読んでいたのでしょう。もちろん購入したり貸本屋から借りたり、が主な手段ですが、講釈・講談を聞くのも「読書」として著者は扱っています。また、大きな貸本屋や蔵書家の中には、現在の図書館と似たようなこと(本の貸し出し、異本の校合、資料の検索)をする人がいました。そういった家は、字が読める人のネットワークの結節点になっていたことでしょう。もしかしたら、そういった「家」が日本の歴史に何か影響を与えていたかもしれない、なんて妄想を私は持ってしまいます。


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