mixiユーザー(id:235184)

2018年03月14日07:16

90 view

「かわいそう」

 誰かのことを「かわいそうだ」と言う人はいくつかのパターンに分けられます。
1)本人の前で言う
2)本人がいないところで言う
3)笑いながら言う
4)泣きながら言う
 言われる本人にとって最悪なのは1)と3)の組み合わせかな。1)と4)の組み合わせは、悪い場合と良い場合が考えられます。
 2)の場合には3)4)関係なく、当人に伝わらなければどうでも良いでしょう。ただ2)と3)の組み合わせは、言っている人の魂が「かわいそう」な状態になっている可能性が大です。

【ただいま読書中】『英雄 ──チャールズ・リンドバーグ伝』K・S・デイヴィス 著、 村上啓夫 訳、 早川書房、1966年、450円
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B000JAB46K/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000JAB46K&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=6ee50edcbbeb2bb414f88dd6d5665121
 19世紀半ば、後の“英雄"チャールズ・リンドバーグの祖父がスウェーデンからアメリカに移民してきました。父は弁護士・下院議員として地元で尊敬と政敵からの攻撃を受ける立場でした。そして生まれたチャールズ・リンドバーグは、内気で孤独と自然と技術を愛する少年でした。はじめは自転車や自動車、ハイスクールからオートバイに彼は熱中します。第一次世界大戦中、航空機のエース(撃墜王)のニュースに夢中になったチャールズは、自分の一生を飛行機に賭けることにし、そのためにウィスコンシン大学に進みますが、そこの授業は期待を裏切るものだったため退学、リンカーン市の航空学校に入学します。しかしそこは「学校」ではなくてネブラスカの航空機の製造会社そのものでした。実に適当な「授業」が8時間あり、そこで学校は閉鎖。困ったチャールズは、経験を積むために飛行機の地方巡業(各地の人に体験飛行をさせるツアー)についていくことにします。面白いのは、当時のアメリカでは「パラシュート」も見世物として成立していたことです。見物人の上空を飛ぶ飛行機から飛び出したジャンパーがパラシュートで着地する「スリルショー」です。チャールズはこのジャンパーもつとめ、人には言葉では伝達しきれない「特別な感覚」を味わいます。陸軍払い下げの安い練習機を手に入れ、飛んで慣れろ、とチャールズは単独で地方巡業を始めますが、その腕の良さを見た複数の人が陸軍航空兵に志願することを進めます。きちんとした訓練を受けられ最新鋭の飛行機に乗れる、と。それまで学校教育に満足できたことがないチャールズは、陸軍の飛行学校では優等生になってしまいます。それにしても、104人入学させてどんどん落第させて1年で18人にまで絞り込むとは、いかにもアメリカ式ですね。
 無事卒業して予備役に編入されたチャールズは、郵便飛行士になります。当時「郵便飛行」は「冒険」と紙一重の行為でした。もっと後の時代の『夜間飛行』(サン=テグジュペリ)でもその「冒険性」はビビッドに描かれていましたっけ。
 「ニューヨークとパリを無着陸で結ぶ」ことで「冒険」と「世界平和」の両方を満足させようと制定されたオルテーグ賞は、何年も挑戦者を待っていましたが、ついに技術が理想に追いつき始め、挑戦者が続々と名乗りを上げ始めます。ほとんどは高名な飛行家でしたが、無名の者も少数いました。その一人がチャールズ・リンドバーグです。
 パリ到着後、24時間以内に「英雄」のアウトラインが形作られました。孤高の存在・素朴な品位・不滅の勇気・申し分のない“ノーマル"さ・落ちついた態度…… マスコミ・大衆・社交界などは狂乱状態となります。それに対するチャールズ・リンドバーグ(と母親)の態度は、素っ気ないと言えるものでした。
 これまでも冒険家などの「英雄」はいろいろ登場していました。ただその名声が続いたのは、せいぜい数日、数週間、どんなに長くても1年は保ちませんでした。ところがリンドバーグの場合は違いました。ずいぶん熱狂が持続したのです。それは、パリ到着直後に時間をおかずに著作を発表したことや、全米に訪問飛行をしたことも影響を与えているでしょう。
 もともと多くを望まず、独立独歩路線で、感情より論理を重視し、プライヴァシーを非常に重視するリンドバーグは、「名声」に早々に幻滅します。しかし自分を守るためには、その「名声」を利用するしかありません。
 リンドバーグは、将来の航空交通の普及をにらみ、訪問飛行ではタイムスケジュールの正確性を示すように努力しました。同時に安全性も。しかしそれに非協力的なのが、「リンドバーグのファンたち」でした。着陸する機を出迎えようと滑走路になだれ込んだり、格納庫に機を収納するのを妨害したりするのですから、困ったものです。新聞との関係も少しずつ険悪さをましていきます。プライヴァシーを大切にする人が守ろうとするものをめぐって、守る人と自分の商売のためにむしり取ろうとする人との戦いなのです(ホテルの部屋への記者の侵入など日常茶飯事でした)。
 結婚、長男誕生、夫妻で日本へ飛行機で訪問(『翼よ、北に』アン・モロー・リンドバーグ)、そして長男誘拐。リンドバーグ夫妻は、子供の心配・警察との折衝・犯人との交渉・家族や親族のケア・そして凶暴な新聞の攻撃に立ち向かわなければならなくなりました。自分の心配をしている余裕などありません。新聞はほくほくです。ニューヨーク市では事件発生からしばらく20%の販売数増加。フィラデルフィアでも15%。だったら、記事がない日でも何か載せなきゃいけません。かくして創作憶測捏造が横行することになります。さらに共和党は、民主党知事の無能を示すチャンスとしてこの事件を利用します。「名声」は多くの犠牲を伴うもののようです。
 「飛行」が「冒険」から少しずつ「商業」に移行し始めると、リンドバーグ夫妻は「商業」と「科学」の両方を満足させる長距離飛行も行います。たとえば1933年の大西洋をめぐる飛行では、空中の微生物を世界で初めて生きたまま採取することに成功しています。しかし、航空行政の予算削減に関してルーズヴェルト大統領と鋭く対立したことで、ついに「英雄の終わり」が始まります。しかし、大統領としては、それまで上手く行っていたニューディール政策がまさか「英雄」に批判されるとは思わなかったでしょうね。ともかく「浮き世離れしていること」も「英雄の魅力の一部」だったはずなのですが、リンドバーグも「利益」には敏感だった、という思いがこれで世間に広がったようです。
 しかし「英雄」は止まりません。チャールズ・リンドバーグは人工心臓の開発に成功するし、人工腎臓まで着想しているのです。ただし、そこで共同開発をしたカレル博士が持つ全体主義的思考がリンドバーグにも親和性を示します。
 1930年代後半、一家はイギリスの寒村で私的生活を守ることができていました。『海からの贈りもの』の主な舞台かもしれません。そこからヨーロッパ各地に出かけるうち、ナチス体制にリンドバーグは魅力を感じ、ヨーロッパでの開戦後は「孤立主義」を唱えるようになります。これはルーズヴェルト大統領には腹立たしい主張でした。しかしナチスへの共感を語る態度は「英雄像」をさらにひび割れさせ、反ユダヤ主義的発言によって「英雄」はついに失墜しました。
 なお、第二次世界大戦中の彼の活動は、また別のお話です。
 チャールズ・リンドバーグはたしかに「英雄」でした。しかし、「信仰の対象」にする必要はなかったはず。それを無理矢理「英雄」に祭り上げた新聞と大衆、それに抵抗し続けたリンドバーグ、この軋轢が「英雄」をさらに“上"に押し上げていったのは、皮肉な現象だったと言えます。これは結局誰の“罪"だったんでしょうねえ。


0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2018年03月>
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031