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2017年10月29日07:26

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クリミア戦争

 この前黒海の歴史について読んでいたら当然のようにクリミア戦争が登場しました。しかし私はこの戦争で思い出せるのはナイチンゲールくらい。あまりに無知なので少し知っておこうと今日の本を読むことにしましたが、読む前からその(本と歴史の)厚みにめげそうです。

【ただいま読書中】『クリミア戦争(上)』オーランドー・ファイジズ 著、 染谷徹 訳、 白水社、2015年、3600円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4560084203/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4560084203&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=08b53cca87a263e696fee5095f8fbdbc
 墓地の描写から本書は始まります。イングランドやフランスに点在する「クリミア戦争で死んだ軍人の墓」、そしてセヴァストポリの大規模な共同墓地。20世紀の世界大戦の陰に隠れてしまいましたが、クリミア戦争は19世紀では最大規模の戦争でした。少なくとも75万人の兵士が戦死・戦病死をしたのです(英国は約10万人派遣して2万の死者、フランスは31万人の派遣で10万人の死者、ロシアは50万人の死者)。この戦争は史上初の「全面戦争」でもあり、民間人も多く殺されました。「最初の近代戦争」でもあり、最新の武器・蒸気船・汽車・電報・軍事医学などが動員され、戦争報道記者と戦争写真家も初めて登場しました。工業力の反映として、塹壕戦も行われました。イギリスでは「世論と新聞によって初めて起こされた(そして「軍」が新聞に初めて激しく批判された)戦争」でもありました。
 戦争そのものは1853年に、オスマントルコとロシアの衝突としてモルダヴィア公国とワラキア公国(現在のルーマニアあたり)で始まりました。54年に英国とフランスがオスマンに味方して参戦。さらにオーストリアが反露連合に参加する動きを見せるとロシアはドナウ川下流域から軍を撤退させ、主戦場はクリミア半島に移ります。英仏海軍は、バルト海・白海さらには太平洋岸(カムチャツカ半島)でもロシアへの攻撃を行いました。「クリミア」戦争ではなくて、世界戦争(の小型版)だったのです。
 英国には「クリミア戦争は不必要な戦争だった」という固定観念があるそうですが、著者はそれに疑問を投げかけます。実は、歴史の重大な転換点だったのではないか、と。
 各国にはそれぞれの「動機」がありました。オスマントルコは、帝国の衰退を食い止め、内部に居住するキリスト教徒(東方聖教徒)庇護を口実に介入しようとするロシアに対して防衛をし、イスラム民族主義革命も食い止めようとしました。英国は、アジアでの競争相手のロシア帝国に一撃を食らわし、オスマントルコに貿易と宗教の自由化を迫るつもりです。フランス(皇帝ナポレオン三世)はナポレオン戦争後に落ちてしまった国威発揚と影響力向上を狙いますし、国内ではロシアに対する宗教戦争(十字軍)を主張する保守的なカトリック勢力も声高でした。ロシアでは、ニコライ一世が傲慢な自尊心に駆動されて領土拡張を狙い、さらにオスマン帝国内のキリスト教徒を十字軍を送って守ることがロシアの神聖な使命だと信じていました。こうして見ると、結構宗教的な「動機」が強いようです。帝国主義の対立と民族主義の紛争、そして宗教問題が「東方問題」を複雑に、かつホットにしていたのです。
 1848年は、ローマ・カトリック教会の復活祭とギリシア正教会の復活祭の日付が一致する年でした。そのためエルサレムの聖墳墓教会での儀式をどちらが先にするか、で紛争が起きます。司祭たちの口論に双方の修道士と巡礼者が加勢し、教会内で50人以上の死者が出ました。19世紀に入って交通機関が整備され、聖地への巡礼者は激増しました。その最大多数はロシアから。巡礼者の暴力的な熱意は、他の国のキリスト教者が見ても異様でした。そして彼らにとって「総本山」の聖墳墓教会は「聖なるロシア」の一部でした。しかしフランスは「西ヨーロッパで一番のカトリック国」の自負を示しロシアを挑発します。エルサレムの支配者であるオスマントルコはこの両者を天秤にかけていました。数百年貯まりに貯まった宗教的情熱が爆発するまで、あと数年です。
 ロシア帝国は当時の列強の中では最も宗教性の強い国家でした。コンスタンチノープルがトルコ軍に滅ぼされてから、モスクワはキリスト教東方正教会にとって「最後の首都」でした。そして、オスマン帝国内のキリスト教徒をイスラム支配から解放しコンスタンチノープルを奪回することが「ロシアの聖なる使命」だったのです。露土戦争が繰り返し戦われた地帯も宗教的に複雑です。ここはキリスト教とイスラムの「断層線(それも複雑にモザイク状となったもの)」でした。オスマンは、ドナウ・デルタ地帯と黒海をロシアとの「緩衝地帯」として使います。しかしオスマンは少しずつ劣勢となり、1783年にクリミアがロシアに併合されました。これはオスマンにとって、政治的・軍事的な打撃であると同時に宗教的な屈辱でした。クリミアに居住するイスラム教徒は弾圧をされます。オスマンはオスマンで、ギリシア独立のため蜂起したキリスト教徒を弾圧しました。ロシアは「ギリシア人」の支援を考えますが、当時の「会議システム(ウィーン会議で確立された、欧州列強が協調し交渉で問題解決に当たる原則)」の下では、ロシア以外の列強は「ギリシア問題」には冷淡な態度でした。自国の国益をまず重視するからですが、現在の国連で安全保障会議がなかなか有効に動けない場面とよく似ています。清は列強によって次々切り分けられていましたが、オスマントルコはもっと徹底的に解体処分をされようとしていました。それがなかなか進まなかったのは、列強がお互いに牽制をしていたからに過ぎません。
 エジプトはトルコに侵入し、ロシアはポーランドの独立運動(武装蜂起)を弾圧、ルーマニアとハンガリーの革命にも軍事介入します。そしてロシアの「カトリック弾圧」がフランスで「ロシアに対する恐怖」を駆り立てます。イスラムでもキリスト教徒は差別されますが、信仰の自由はありました。しかしロシアではロシア正教への改宗を強要されるのです。ロシアに対する反感が西欧では強まり、ロシアがついにドナウデルタに本格的に進出すると、オーストリア・プロイセン・英・仏は手を組むことにします。トルコを救うためではなくて、ロシアを押さえ込むために。
 ロシアのニコライ一世は、長兄アレクサンドル一世がナポレオンに勝利した1812年の戦いを自信の根拠としていました。そうそうロシアではもう一人、若い砲兵士官に著者は注目します。レフ・トルストイ、のちの文豪トルストイです。


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