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2017年10月10日06:52

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戦争の管理

 日中戦争の時、満州軍は政府(文民)どころか直属上司の大本営の意向や命令さえ無視して戦争拡大に励みました。これだけ見たら「文民統制」の徹底が重要そうです。
 ところが湾岸戦争のときだったかイラク戦争の時だったかな、アメリカの「軍人」は戦いに抑制的だったのに「文民」がやたらと積極的で戦火が拡大しそうになった、というのを何かで読んだ覚えがあります。
 戦争はないのが一番ですが、する場合でも適度なところで収めるのはなかなか難しいもののようです。

【ただいま読書中】『刀伊入寇 ──藤原隆家の闘い』葉室麟 著、 実業之日本社、2011年、1600円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4408551678/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4408551678&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=75c7bd7b5105f9f6f4caa0e6020de8be
 鎌倉時代の「元寇」の“予行演習”のように、平安時代に「刀伊」という(おそらく女真賊の)海賊が大集団で北九州を襲いました。「刀伊入寇」と歴史の本には書いてあります。本書ではその「刀伊」が入寇前から日本にそれも都に入っていて、その“裏の世界”での活動を当時の日本人は「鬼」として見ていた、という仮定から話が始まります。主人公は藤原隆家。隆家の父藤原道隆は関白で、道隆の娘定子は一条天皇の后。人臣位の極みですが、藤原家(具体的には道長と)の内紛、陰謀で天皇を退位させられた花山院の恨みと復讐のための策謀、そして道隆の病死により、隆家の一族の繁栄には陰りが見えるようになった、そんな時代のお話です。
 隆家は、貴族でありながら「強大な敵との闘い」を望む気概を持っていました。ただ、彼は陰謀を好みません。「武」の人です。だから陰謀そのものの「長徳の変」には手も足も出ませんでした。そういった隆家を陰謀面でバックアップ(アドバイス)するのが、晩年を迎えている安倍晴明。彼は「陰が極まれば陽に転じるから、凶事(陰)に逆らうな」と言います。そして、出雲に配流されている間に、隆家は頭を使うことを覚えます。そして、道長が「満月の歌」を読む頃、隆家は「強い敵」を迎え撃つために大宰府に権師(ごんのそち=長官)として赴任します。九州の武士たちは戸惑います。殿上人が自ら戦うというのですから。しかしその実力によって隆家は武士たちを掌握してしまいます(おそらくここは史実そのものでしょう。実際に刀伊襲来の時、九州の武士たちは隆家を中心にものすごく敏速に反応していますから)。
 隆家が大宰府に来て数年後、高麗の沿岸を襲っていた刀伊がついに日本にやってきます。まずは対馬、そして壱岐。島民はほとんどが殺されるか虜囚となります。そしてついに博多湾へ。総数はおそらく四〜五千人。戦うために集まった北九州の在地武士たちも総数は同じくらいですが、主力は農民兵です。手練れの海賊に太刀打ちできるでしょうか。
 ここから血湧き肉躍る合戦場面になるのですが、隆家はつねに「国際政治」を考えています。刀伊を撃退した後、追撃をしすぎて高麗の国境を侵したら、それは日本と高麗の戦争へとつながります。しかし虜囚として連れ去られた日本人たちを取り返したい。ではどうしたらよいか。そこで登場するの場「武」ではなくて「外交」でした。
 そして京都では別の思惑も進行していました。公家たちは「戦いが短期間で済んだ、ということは敵は弱かったということだ。だったらそれに恩賞など不要だろう」などと言い出しています。それに対して、隆家の“敵”である道長が下した決断は……
 平安後期の「武士」の物語ですが、「武」が常に「政治」と関係していることが、フィクションであってもよくわかります。そしてそれはたぶん現代でも同じことでしょう。


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