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2017年10月07日06:56

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海の意味

 ナポレオン戦争の時、英仏海峡は、ナポレオンから見たら「越えるべき障壁」だったのですが、英国から見たら「主戦場」でした。スペイン無敵艦隊との戦いでも、スペインはナポレオンと同じように英仏海峡を見て、だから陸軍での渡海を計画したため、海軍との作戦がバラバラになってしまいました。
 そういえば太平洋戦争で、太平洋は日本軍にとっては、軍事的には何だったのでしょう?

【ただいま読書中】『黒海の歴史 ──ユーラシア地政学の要諦における文明世界』チャールズ・キング 著、 前田弘毅 監訳、 明石書店、2017年、4800円(税別)
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 「黒海」の最古のギリシア名「ポントス・アクセイノス(暗い海)」は、より古いイラン語からの借用かもしれませんし、地中海よりはるかに水深が深いから海面が暗く見えることを単純に表現したものかもしれません。ビザンツ期には単に「Pontos(海)」と呼ばれることが多く、そのためアラビア語では「ブントゥス(ポントス)海(つまり「海」海)」と呼ばれます。本書では、古代中国の五行での「北は黒」の影響まで考察されています。現在黒海を取り巻く諸国は、すべて自国語で「黒い海」と呼んでいます。
 黒海は地中海ほど有名な「海」ではありません。しかし現在それを取り巻く国、トルコ、グルジア(ジョージア)、ロシア、ウクライナ、モルドヴァ、ルーマニア、ブルガリア、というラインナップを見ると、過去に重要な役割を果たしたであろうことは容易に見て取れます(たとえばトルコは現在は「中東枠」で扱われますが、オスマン帝国がかつては「ヨーロッパ枠」で扱われていたことが黒海の歴史を概観するだけでも理解が容易になります)。
 湖底の沈殿物の分析で、黒海はかつては淡水湖だったことがわかっています。しかし7500年くらい前、地中海の海面上昇によって海水が激しく流入、1週間かからずに水面は150m上昇して「湖」は「海」になったと推定されています。周囲の集落は当然洪水に飲み込まれてしまったでしょう。この「記憶」がのちの「大洪水伝説」になった可能性もあります。地中海の海水が浸入したとき、深層は海水に満たされましたが上層は淡水で薄められた海水で占められました。上層はボスポラスとダーダネルス海峡を通じて新しい海水に少しずつ交換されてきましたが、太古の二層構造は実は現在まで保存されているそうです。200mより深い部分の海水は無酸素状態で、世界最大の硫化水素の貯蔵庫になっているのです(そのため、古代の難破船が積み荷ごとまったく腐らずに保存されているのが発見されています)。ドナウ、ドニエプル、ドン、リオニなどの大きな川が注ぎ込むことでこの「海」には左回りの海流が発生しています。
 紀元前8世紀頃キンメリア人が黒海周辺に現れましたが、クリミア半島にその名を残しただけで姿を消してしまいました。ついでですが「英雄コナン」は想像上のキンメリア王国の王子です。紀元前5世紀、ギリシアの植民都市が黒海沿岸にいくつもでき、盛んに交易が行われ、結果として「ギリシア人」と「バルバロイ(野蛮人、異民族)」との文化交流が進みました。 
 古代ローマにとって黒海は「東のフロンティア」でした。ポンペイウス、カエサル、トラヤヌス帝と次々ローマは遠征を行いますが、黒海を丸ごとローマの版図に組み込むことは困難でした。ビザンツ帝国にとっても黒海は「危険な場所」でした。海は荒れやすく、周辺には蛮族がひしめき合っていたからです。しかし黒海はシルクロードの結節点として重要な役割も果たしていました。ただ、シルクロードを通って、モンゴル人も、あるいは疫病もやって来ました。
 14世紀にオスマンが勃興。ビザンツ周辺の地方領主からビザンツとの同盟者、そしてビザンツの征服者へと成長していきます。コンスタンティノープル陥落から1世紀で、オスマンは黒海沿岸全部と主要内陸部を支配するようになりました。この黒海の独占支配は18世紀末まで続きます。黒海は「トルコの海」になったのですが、面白いのは最初の2世紀は海賊が消滅したことです。それは同時に「ビジネスの繁栄」を約束しました。しかし、コサックが、草原だけではなくて黒海でも暴れ始めます。オスマンは防衛の負担にあえぐようになりますが、それを新興国のロシアが見守り、やがて艦隊を黒海に浮かべてオスマンと対決するようになります。オスマンの衰弱を見て、ヨーロッパ列強も黒海へ進出し始めます。イギリスとロシアは、中央アジアの支配権をかけて争い、その焦点がクリミアに結ばれます。黒海北岸のクリミアは、実は南岸に密接に関係しており、さらに南岸を通してコンスタンティノープル、さらには「世界」につながる場所だったのです。
 かつてオスマンが黒海を「トルコの海」にしたように、ロシア(ソ連)もまた黒海を「自分の国の内海」にしようとしていました。そして、今でもまだその“野望”を捨てていないのではないか、と私には感じられます。できたら多民族が共存できる「平和の海」であって欲しいんですけどね。


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