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2017年10月01日16:37

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逆上がりの逆

 ……えっと、順上がりってどんなのでしたっけ?

【ただいま読書中】『江戸時代の罪と罰』氏家幹人 著、 草思社、2015年、1800円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4794221681/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4794221681&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=5b71b345bbc6b0d3aff50b86f31d19de
 まるで展覧会のように「江戸時代の犯罪と刑罰」の「ケース」が26例並べられています。
 江戸で「辻斬り」が盛んに行われたのは、江戸初期(まだ戦国の荒荒しい気風が“現役”だった時代)と幕末(テロと抗争の時代)でした。犠牲者は基本的に町人。おそろしいことに「千人斬り」を志す者さえいました。南方熊楠は「千人切りの話」で16世紀まで遡っての論文を示しています。これは「病気平癒」などの願掛けを達成するための行為なんだそうですが、単に自分の殺人衝動を正当化するために後付けで「願掛け」などと言っている可能性もあるでしょう。江戸時代直前には京で、江戸時代が始まるとこんどは江戸で、千人斬りを思わせる無差別殺人事件が次々発生しました。その予防のため幕府は辻番を創設します。
 千人斬りのルーツは、釈迦の弟子アングリマーラの伝記にまで遡るそうです。今の目からはなんとも無茶苦茶な伝説なのですが、それが漢訳の仏典を通じて日本に伝えられ、日本では謡曲や狂言での「千人切り」となりました。これらで目立つのは「罪の意識の欠如」です。それは「武士」にとって「町人」は「自分の共同体の外側の存在」だったからではないか、と著者は指摘しています(「共同体の内側」つまり“身内”には辻斬りができない)。だから辻斬りの対象に武士が入りにくかったのでしょう。逆に言えば、現代でも、「あんな奴は死んでも当然」と思う人間がいる場合、そう思う人の「共同体」はそれよりも“内側”に境界線が引かれている、ということになりそうです。テロリストたちの「共同体の感覚」がどのようなものか、もそこから導き出されそうです。するとテロの予防は、「共同体の感覚」をできたら地球規模(あるいはそれ以上)に幼少時期から育成できたらよい、ということになりそうです(これは江戸時代から現代にもたらされた“教訓”ですね)。
 江戸初期の刑罰は残虐なものでした。金沢では、火刑・鋸引き・牛裂き・釜炒り(水か油での釜ゆで)などが行われた記録が残っています(「石川五右衛門の釜ゆで」も別に特例ではなかったようです)。また緣座(連帯責任)も厳しく、藩の金を横領して逃げた者の家族が死罪になったり、盗賊一味が捕えられたとき火あぶりになったのですが、彼らの幼子がまず首を切られて親にその首を投げ渡されそれから火をつけた、なんて記録も紹介されています。残虐な刑はもちろん金沢藩だけのものではなくて、会津藩でも同様に残虐刑や緣座が行われていたことが文献からの引用で紹介されます。また、江戸時代の刑罰の特徴に「不忠」「不孝」には極刑、という態度があります。これは当時のキリスト教社会で「不敬」には極刑、だったのと“根っこ”は同じと言えるでしょう。
 磔や火刑は江戸時代を通じて行われました。しかし、刑の執行者たちには「不必要に残虐な刑は、不要なのではないか」という意識が少しずつ芽生え、「刑の改革」が少しずつですが進んで行きました。
 幕府から死罪の人間をもらい受けて、藩主自らが試し切りをする、という話が、水戸光圀や高松藩松平頼重・頼常父子にあります。ただし高松藩三代目頼豊の時代に幕府(将軍綱吉)が「藩主自身の試し切り」を禁止しました。血なまぐさい時代は少しずつ泰平の世に変化しています。
 ただ、残虐な殺し方をしなければ良い、というわけではありません。たとえば会津藩では密通に対して鼻そぎや耳そぎの「肉刑」が行われた例があります。人妻を強姦した男はさらし刑のあと男根を切り落とす。後家や娘を強姦したら額に焼き印。本来は「死刑」にするべきところを一ランク落とした「慈愛の刑」だったはずですが、やはりその残酷さが問題になり(あまりに目立つので更生の機会がなくなってしまう)、元禄の頃に肉刑は廃止になりました。
 将軍吉宗は中国や朝鮮の刑罰にも明るく、その知識が「公事方御定書」にも活かされたようです。これによって残虐刑はずいぶん整理されました。また吉宗は、取り調べの時の拷問についても濫用を禁じました。ただ、幕府の公文書では「釣責(つるしぜめ)」だけが「拷問」で、「笞打(むちうち)」「石抱(いしだき)」「海老責(えびぜめ)」は拷問ではない「責問(せめどい)」という分類でした。
 密通の罪は既婚者だけではありません。父や兄の許諾を得ずに、娘や妹が勝手に男と暮らし始めた場合、それは「密通」でした。江戸前期にはそれは私的制裁(父や兄が殺してよい、いや、殺すべき)の対象です(現在でもイスラム社会では「名誉の殺人」として行われている行為)。しかし17世紀末頃からは、父や兄が奉行所に訴え出て、奉行所が入牢や追放などの罰を科することが増えました。「制裁」は「私」から「社会」に移行しつつあったのです。
 「冤罪」も重要なテーマです。「拷問」は減っていったとは言え、私の目からは明らかに拷問に見える「責問」はしっかり行われています。だからその苦痛に耐えかねて、あるいは「責問をするぞ」と脅すだけで、「自白」する人間はいくらでもいたでしょう。本書には自白させる名人の与力が、明らかに無実の自分の家来で自分の尋問テクニックを実験してみたら見事に「自白」をさせることに成功してしまって、「自分は冤罪をどのくらい作ったのだろうか」とショックを受ける話が紹介されています。今の警察にも「自白させる(おとす)名人」がいるはずですが、そういった「実験」はしたことがないのかな? なお「冤罪」を産む土壌は、「名人の腕」に酔い、出世に役立ち、上役の覚えもめでたくなる、という「官の弊風」にある、という指摘がすでに13世紀に中国南宋の『棠陰比事(とういんひじ)』で行われているそうです。著者の読書範囲は広いですねえ。感心します。ただ単に江戸時代を面白おかしく紹介しているだけではありません。


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