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2017年05月31日20:20

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AI対人間

 チェス、将棋、囲碁と次々世界最高のプロがAIに敗れています。
 では、次は? 私はぜひ「AI麻雀」を開発して欲しい。麻雀には「運」や「流れ」がありますが、それでも強い人は強いわけで、もしも麻雀のプロを連破するAIが登場したとして、それはどんな打ち方をするのか、そこにとっても興味があります。

【ただいま読書中】『モスクワ攻防戦 ──20世紀を決した史上最大の戦闘』アンドリュー・ナゴルスキ 著、 津森京子 訳、 津森滋 監訳、 作品社、2010年、2800円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4861822831/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4861822831&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=4145a040ac2f2ad74aa46c6c97e9360e
 独ソの戦闘で有名なのはスターリングラード攻防戦です。両軍で360万人の兵士が駆り出され、91万人が犠牲となりました。ところがモスクワ攻防戦では700万人の兵士が闘い250万人が犠牲になったのに、なぜか「モスクワ」は歴史の中で過小評価される傾向があります。しかし、「モスクワ」は、ドイツ陸軍が初めて喫した大敗北で、それによって第二次世界大戦の帰趨が決まった、と著者は大きな評価を与えています。
 スターリンは猜疑心の固まりでしたが、なぜかヒトラーに関してはその猜疑心は自国の諜報員に向けられていました。「ドイツがソ連に侵攻するバルバロッサ計画を着々と準備中」という情報は、スターリンを激怒させるだけだったのです。そのため、ドイツ軍の攻撃が始まったとき、それに対して応戦したのは第41狙撃兵師団だけでしたが、NKVD(内務人民委員部)は師団長のミクシェフを「抗命」の罪で逮捕しました。今まさに戦闘中でミクシェフの師団だけが何倍も優勢なドイツ部隊を押し返しているのに。ついでですが、ミクシェフは「退却してはならない」という中央の命令を無視して部隊を退却させて戦闘を継続しました(退却しなければ、全滅か捕虜になるだけです)が、それもまた「抗命」ということでまたもや逮捕されそうになりました。スターリンは、敵よりは優秀な味方を殺すことの方に熱心だったようです。
 モスクワ攻防戦については以前『モスクワ攻防1941 ──戦時下の都市と住民』(ロドリク・ブレースウェート、白水社)で読んでいたので、ダブるエピソードも多いのですが、本書には本書の面白さがあります。
 たとえば「レーニンの疎開」。開戦後、レーニンの遺体は即座にチュメニ(モスクワから東へ1600km)に移されました。レーニン廟の職員は遺体に付き添い、終戦までそこで過ごすことになります。食生活だけは非常に快適だったそうです。
 日本の戦陣訓は「生きて虜囚の辱を受けず」で知られていますが、スターリンの指令270号はそれより強烈です。「捕虜になった者は死刑。その家族も罰する」ですから。スターリンの長男ヤコフは捕虜になってしまいましたが、その妻ユリアは収容所に2年間入れられています。後にドイツ軍は、ヤコフ中尉とスターリングラードでソ連軍に捕えられたパウルス陸軍元帥の捕虜交換を提案しますがスターリンは拒絶。ヤコフは自殺しました。「阻止部隊」も大活躍です。前線の少し後方に位置して、最前線の兵士が少しでも後退したら、即座に射殺するお仕事です。兵士は報われません。下がれば味方に殺される、踏みとどまっても敵に殺される。ドイツ軍にうまく投降できても、本国では死刑宣告、捕虜収容所では75%の死亡率なのですから。(ついでですが、捕虜収容所から脱走して帰還したら、スパイ容疑がかけられることになっていました)
 スターリンが愛用する手法は「粛清(テロル)」でした。ポーランドをドイツと分割統治することになると、早速ポーランド人の大移動と殺害が開始されます(「カチンの森」はそのほんの一例です)。ドイツ軍の自国への侵攻が始まると、「処理」するべき大量の囚人を大急ぎで殺すために、前線に投入するべき部隊まで囚人殺害に回されました。
 「粛清」が大好きなのは、ヒトラーも同様でした。スターリンの恐怖政治からの“解放軍”としてドイツ軍を歓迎した人々は、やがてヒトラーの恐怖政治に対する抵抗勢力になっていきます。
 ヒトラーにとって、ソ連侵攻は、イギリスに侵攻する前に“背中”を安全にしておくための事前準備でした。モスクワに一直線に向かえるところまで侵入した瞬間ヒトラーは気が変わり、ウクライナの首都キエフ攻略を優先し モスクワは後回しにします。野戦司令官たちは呆然とします。せっかくの好機なのに、と。それによってスターリンは、貴重な数週間を与えられました。(ダンケルクでも、猛進撃をしていたグデーリアンの装甲師団をヒトラーが足止めしたためにその時間を活かして英仏の33万人の兵士が脱出できたことを私は思います) この時ドイツ軍がモスクワを落としていたら、第二次世界大戦の行方は変わっていた可能性が大です。
 ドイツ軍はついにモスクワ南西160kmまでせまり、焦ったスターリンは、スターリングラードで奮戦中のジューコフ(ノモンハンで日本軍に煮え湯を飲ませた人)をモスクワ防衛のために呼び戻します。
 諸外国もモスクワ攻防戦に注目していました。ただし「ドイツ乗り」と「ソ連乗り」でそれぞれの意見は大きく割れていました。ややこしいのは、同じ国の外交官や軍人でも意見が割れていて、それぞれが自分の国の政策決定に影響力を与えようとしていることです。それでも、モスクワが“風前の灯”であることは誰の目にも明らかとなり、10月16日に外交団や外国人特派員はモスクワから待避することになります。
 公式の記録では、モスクワの住民は一致団結してドイツ軍に立ち向かったことになっています。しかし実際には、略奪・ストライキなど、以前は考えられなかった事態がモスクワに出来していました。さらに避難民が大量に。モスクワの人口は1941年1月に421万、9月には他の地域からの避難民が流入して423万になっていましたが、10月に314万、翌年1月には202万になったのです。スターリンはモスクワに留まることを選択します。単に呆然としていて自分の権力が及ばない存在に対応するための決定ができなかっただけかもしれませんが。
 しかし、まさにその日、「冬将軍」がやって来ました。吹雪が始まったのです。
 スターリンはモスクワに戒厳令を敷き、大量の流血の後、市内に秩序が戻ってきます。さらにスターリンは革命記念日の11月7日にいつも通り軍事パレードを挙行することにします。メリットは、国民の士気向上。デメリットは、首都防衛線に配置するべき部隊にパレードさせ、さらに自分の位置を敵に特定されること。それでもスターリンは周囲の反対を押し切ってしまいます。「自分はびびっていないぞ」と態度で示すことは、国民に対して、というよりも、スターリン本人にとって何より大切だったのかもしれません。
 極東からやって来たシベリア師団は戦局を変える切り札的働きをしました。しかしシベリア師団をモスクワに投入するためには、日本が参戦しない保証が必要です。そこで重要な働きをしたのがゾルゲからの情報でした。そして、シベリア師団の兵士たちの最大の強みは「(モスクワ攻防戦で戦っていたドイツ兵もソ連兵も持っていなかった)防寒装備」でした。10月にすでにマイナス20度、11〜12月にマイナス40度にもなる環境では、防寒できるかどうかが生死を分けたのです。ドイツ軍はモスクワ中心から32kmの所まで到達し(『モスクワ攻防1941』に、モスクワへのバス停留所に立っていることにドイツ軍兵士が気づくシーンがありましたっけ)、そこで敗走が始まります。
 歴史に「イフ」はありませんが、もしもモスクワにドイツ軍が侵攻できていたらどうなっていたでしょう。たぶんスターリングラードと同様の「一部屋一部屋ごとの激しい戦闘が泥沼のように延々と続く」状況にドイツ軍は引き込まれたでしょうが、それでも屋外で凍死していくよりは勝ち目があったはず。そしてもしもモスクワが陥落したら、ソ連は交通と政治の中枢と一大生産地、さらに「シンボル」を失うことになります。それでなくても赤軍はドイツ軍より損害が多かったのに(死傷者数は3倍、という推定が本書にあります)、モスクワ市内で戦闘をしたらさらに死傷者数は増加していたはずで、それはソ連にさらに大きな傷を与えることになっていたでしょうし、世界の姿は今とは違ったものになっていた可能性が大です。


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