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2017年05月18日07:06

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海洋投棄

 私が子供の時には、街の中をバキュームカーが走り回っていました。当時はまだ糞便の海洋投棄が認められていて、平気で海にドボン。それを何も思わず看過していた私は、原発の汚染水が海に漏れても「コントロールできている」と主張する人の態度を責めることはできないのかもしれません。

【ただいま読書中】『江戸の糞尿学』永井義男 著、 作品社、2016年、2400円(税別)
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 都市の人糞を集めて下肥として使う社会システムは、鎌倉時代から戦国時代にかけてできあがりました。『日葡辞書』には「Coye(肥)糞尿・肥料」「Coyeo tacuru(肥をたつる)糞尿・肥料を外に運び出す」が収載されています。糞尿は「金になる商品」となり、便所は「川や地面に垂れ流す」形式から「貯蔵とくみ取りができる施設」に変化します。
 馬琴の日記から滝沢家のトイレ事情が解説されていますが、なかなか興味深い内容です。庭付きの戸建てという、庶民よりはるかに恵まれた住宅環境ですが、今の目からやはり貧相なトイレです。それでも「陶器製の朝顔(男性用小便器)」を設置する、なんて大贅沢をしていますが。くみ取りに来る百姓は契約によって数里向こうから歩いてやって来ます。来ると、庭の畑に野菜の種をまいたり垣根を修繕したり、まるで下男のように重宝されています。実際、滝沢家には下男がいなかったから誰かに頼るしかなかったのですが、その報酬は“昼飯”でした。
 庶民が住む裏長屋では、共同便所のくみ取りで農民が払う銭は大家(長屋の所有者から依託された管理人)の役得となっていました。江戸後期の風俗を扱った「守貞謾稿」には、大家の年収四十両の1/4が糞代とあります。当然、大家と農民の契約交渉はシビアなものとなりました。
 便所での事故も多かったようです。物を落としたりお釣りをもらったり(大便を落としたら汚水がはね返ってくる)、はまだ当たり前ですが、将軍に酒を強要されて酔っ払った武士が頭から落ちて溺死した、なんて剣呑な事例も江戸城で報告されています。
 上方では小便は大便と並んで貴重な肥料の原料扱いでしたが、江戸では小便はあまり重視されていませんでした。それでも中には小便だけをわざわざ収集して野菜の肥料に使っている農民もいたようです。上方と江戸の違いは「女の立ち小便」にもありました。どちらでも女は路傍で平気で立ち小便をしていましたが、上方は立ち小便(立って上半身を前傾させて後方に放尿)、江戸はしゃがみ小便だったそうです。そういえば東京オリンピックの時に国立競技場に女性用の小便器が設置された、という噂を聞いたことがあります。当然見たことはありませんが、これは「立ち小便」だったのでしょうね。
 古代ローマにすでに水洗トイレがありましたが、これは河川や海に単に放出するだけのものでした。中世ヨーロッパの都市でトイレは“退化”し、パリでは建物の窓から道路におまるの中身をぶちまける行為が横行します。パリの街路は糞尿で悪臭紛々、セーヌ川も流れ込んだ汚物の“下水”になっていました。ヨーロッパでは家畜の糞が肥料として利用されていて、わざわざ街に人糞を買いに来る必要がなかったからでしょう。
 江戸の人口が増えると、糞便の“生産量”が増加しますが、それと同時に野菜などの需要も増加します。そのためには肥料が大量に必要になるのは良いのですが、問題は、量が増えると農民が個別に対応することが困難になること。そのため“専門業者”が出現しました。大量に運搬するために船を用いたため、下肥の利用は江戸の「東側」で盛んに行われていました。ただ、“商売”が大規模になると、関与する人間の数が増えます。その結果は「下肥の値上げ」や「水増しした下肥」でした。そのため「米騒動」ならぬ「下肥争議」が発生します。最初は寛政元年。村々から勘定奉行に「くみ取り料値下げ」の嘆願書が出されましたが、奉行は却下。すると翌年武蔵・下総の千十六村が結束して値下げ交渉をし、一時的に下肥の値は下がりました。しかしすぐに値上げが始まり、さらに天保の改革で「諸物価の値下げ」が命じられ、米穀や野菜は強制値下げとなりましたが、下肥は「商店で売られる商品ではない」と値上げが黙認されました。農民は踏んだり蹴ったりです。経済の仕組みに精通していない“世間知らず”が「改革」をすると碌なことにならない、という歴史的な教訓です。
 明治になっても下肥の重要性は変わりませんでした。しかし、大正期になると、下肥の利用が減り、都市に糞尿が溢れるようになります。そこでくみ取り料を都市の側が支払ってくみ取ってもらうようになりました。それは昭和になるまで続きました。で、このあたりになると話は「歴史」ではなくて「私の体験談」にと続くわけです。


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