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2016年08月13日17:10

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漢○

 日本では「中国」の代名詞として「漢」が使われることがあります。たとえば「中国の文字」は「漢字」、「中国の医療」は「漢方」といった感じで。ではその「漢」が国名で、その国が存在したのは「邪馬台国の卑弥呼」よりも前の時代、と言ったら少しは驚いてもらえます? 世界史を学んだ人は驚かないかな。だったら、なぜそんな古い時代の国名が後の日本で「中国の代名詞」になったのでしょう?

【ただいま読書中】『武帝 ──始皇帝をこえた皇帝』冨田健之 著、 山川出版社、2016年、800円(税別)
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 「漢」は、西暦で言うなら「BC」と「AD」の境目を中心に前後2世紀ずつくらいの間存在していました。間にちょっと別の国が入って切れているので、前半を「前漢」、後半を「後漢」と言います。その前漢でもっとも有名な人が、本書の「武帝」でしょう。
 紀元前141年、漢の景帝が亡くなり、その後を九男の劉徹(16歳)が継ぎました。後の武帝です。ここには皇太子追い落としの陰謀があり、それだけで一冊の本になりそうです。もっともこういった皇太子追い落としの陰謀は中国の王朝史では“伝統”ですから、誰も驚かないかもしれません。
 ともかく担ぎ出された形の武帝は、自身の権力基盤が弱いため外戚(担いでくれている人)に頼ることになります。そういった人びとは儒教に強く関係していて、自然に政権は儒教色が強いものになりました。はじめは外戚の言いなりだった皇帝ですが、やがて「自分の色」を出そうとします。どろどろの権力闘争の始まりです。
 武帝は全国から才能ある人間を集めました。科挙はまだない時代ですから、おそらく縁故を頼った推薦制度だったのではないか、と私は想像します。そういった若者の中に後の丞相公孫弘も含まれていました。なお、公孫弘の言動から「曲学阿世」という言葉が生まれたそうです。ただし、武帝から見たら、「自分に何かを押しつけるのではなくて、自分の意図を献身的に現実化していく有能な人」という評価になるでしょう。つまり「優秀な官僚」の一つの理想解が「曲学阿世」だったようです。
 紀元前134年に官僚任用制度が創設されます。郡守や国相などの郡国の長官に「孝行な者」と「廉潔な者」を毎年一人ずつ推薦させ、中央で審査して採用する「孝廉制」です。能力ではなくてこういった人格重視という点がいかにも古代中国らしいですね。そして、官僚「制度」が整備されると、皮肉なことに皇帝と官僚との距離は遠くなります。漢の高祖劉邦の時代には、帝と部下たちの“距離”はとても近いものだったことがいろいろなエピソードに残っていますが、武帝の時代にその間に「壁」ができてしまったようです。
 「曲学阿世」「官僚制度」「権力者と官僚の間の“距離”」など、現在の日本の政治制度に見られるものが、約2000年前にすでに認められたというのは、オドロキです。繰り返しますが、卑弥呼より前なんですよ。こうして「帝国支配の方法論」を確立したことが、武帝の一番の“功績”だったと言えるのかもしれません。人びとがそれで幸せだったかどうかは、また別のお話ですが。


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