mixiユーザー(id:235184)

2016年08月06日06:56

258 view

使い捨ての被爆者

 毎年この季節になると「原爆」と「終戦」がマスコミに登場します。これを「ヒロシマの被爆者は8月6日にマスコミの使い捨てになる」と表現した被爆者がいたそうです。フクシマの被曝者もその内にそういった扱いになるのかもしれません、というか、すでにもう使い捨てられてしまいましたかね?

【ただいま読書中】『写らなかった戦後 ヒロシマの嘘』福島菊次郎 著、 現代人文社、2003年、1900円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4877981667/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4877981667&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 著者は1945年4月に広島で二度目の応召、本土決戦要員として自殺部隊(上陸する米軍戦車のキャタピラに、爆薬を背負って飛び込む)に編入され、厳しい訓練を受けました。原爆投下6日前、部隊は九州に出発、爆雷と手榴弾を渡されて海岸に掘ったタコツボに身を潜めて米軍の上陸を連日連夜待ち続けます。今世界中で吹き荒れている自爆テロの嵐の“先駆者”と言えるでしょう。死の恐怖と戦い続けて8月15日。広島に帰った著者は、死ぬべき自殺部隊が生き残り、空襲のない広島に安堵していた人びとが殺された現実に、立ちすくみます。以後40年著者は被爆者を撮影し続けます。著者は「わずか4分の撮影」と言いますが、平均500分の1のシャッタースピードでの計算ですから、撮影枚数は5万枚(原爆も含む戦後状況の撮影は、25万枚、20分50秒)。そして“映像の隙間”を埋めようと書かれたのが本書です。
 中村さんという被爆者の家に通い始めて1年、あまりに厳しい現実に気後れしてシャッターを押せなかった著者に中村さんはぽろぽろ泣きながら言います。「ピカにやられてこのざまじゃ。このままじゃあ死んでも死に切れん、あんたぁわしの仇を討ってくれんかいのう」。戸惑う著者に中村さんは言葉を継ぎます。「わしの写真を撮って世界中の人に見てもろうてくれぇ。ピカに遭うた者がどれだけ苦しんじょるかわかってもろうたら、わしも成仏できるけぇ頼みます」。
 ドキュメンタリー写真は「人間の尊厳をいかに表現するか」と「レンズがいかにプライバシーを侵害するか」の二律背反で成立しています。著者はその矛盾に悩みますが、その背中を中村さんの言葉が押し続けたそうです。
 本書は「原爆によって、心身と生活を破壊された大勢の被爆者」の物語のように見えますが、同時に「被爆者と向き合う著者の人生の物語」でもあり、さらに「死別の物語」でもあります。被爆者は著者より早く、次々亡くなっていくのですから。そして、その「死」までの人生は悲惨なものです。「被爆」自体は悲劇ですが、「被爆以後」も悲劇の連続なのが、やりきれません。
 以前読書した『期限切れのおにぎり ──大規模災害時の日本の危機管理の真実』(鈴木哲夫)に「自然災害のあとに起きたことは、すべて人災だ」という後藤田正晴のことばがありました。これを応用すると、「原爆のあとにおきたことはすべて人災だ」となりそうです。原爆そのものも人災ではありますが。核兵器を肯定する側も否定する側も、どこか言葉に頼ったきれいごとを述べようとしているのが私は以前から気になっていました。本書ではそれは鋭く否定されています。そんなきれいごとは「ヒロシマの嘘」だ、と。


0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2016年08月>
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031