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2015年01月29日07:31

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こまごま

 「どんな単語を使うかなんて、こまごまとした議論」と公言する政治家もいますが、どのような単語を使うか/てにをははどうするか、なんてことに細かく神経を使うのが「言葉で“商売”するプロ」の基本姿勢、と私は思っています。作家とか評論家とか学者などはそういった「プロ」ですが、政治家もまた「言葉で“商売”するプロ」の一員ではないのかな?
 もし本当に「どんな単語を使うかなんてのはこまごまとした問題」なのだったら、「敗戦」「侵略」「反省」なんて単語を使うかどうかも気にせずにあっさり使ったら良いのに、と思います。本当に「こまごまとした問題」と思っているのなら、ですが。その場合には「どんな単語を使うかは細々とした問題」なんでしょ? 気にしなくて良い。
 だけどもしも本心では「こまごまとしたものではない」と思っているのに口では「そんなのはこまごまとしたもの」と言っているのなら、そんな人の言葉がどこまで信頼できるのか、と私は思います。

【ただいま読書中】『証言=明治維新 11月5日大村益次郎暗殺さる』川野京輔 著、 ビッグフォー出版、1977年、1700円
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 戸籍帳によると、文政八年(1825)五月三日周防国吉城郡鋳銭村の村医者村田家に大村益次郎は生まれました。幼名は宗太郎。宗太郎の生家は漢方医でしたが、蔵六と名をあらため十八歳で蘭方医に弟子入りします。蔵六の知識欲には果てがなく、二十二歳で大阪適塾に入門。しかしすぐに長崎に遊学します。著者は、当時の適塾のオランダ語の水準を蔵六がすでに越えていたからではないか、と推測しています。伝説ではそこでシーボルトとの出会いがあるのですが、実際にはそのときシーボルトはすでに国外追放をされていました。しかしオランダ人や通詞との交流は豊富にできました。そこで蔵六は、蘭方医学だけではなくて、西洋の合理主義などを吸収します。
 大頭で怪異な風貌から、適塾では「火吹きダルマ」とあだ名された蔵六は、群を抜いた蘭学の知識と西洋流の合理主義でも、有象無象とは一線を画する存在になります。
 嘉永三年(1850)蔵六は突然帰郷して開業しますが、医者としては全然はやりませんでした。そこで嘉永六年、宇和島藩からの誘いに乗って仕官をします。なんと百石という破格の待遇でした。武士でも上士の待遇です。富国強兵に熱心だった藩主宗城は、高野長英の後継として蔵六に期待をしていたようです。そして、村田蔵六を宇和島藩に推薦した一人、二宮敬作の家には、シーボルトの娘おいねが養育されていました。ここから二人のロマンスの伝説が始まります。
 蔵六は医者ですが、原書が読めました。その原書の中には軍事の本も含まれています。そこで人々は「軍事の原書を読める」→「軍事の専門家」という期待をします。蔵六もその期待に応えようとして盛んに勉強をしました。安政年間には、宇和島藩士の身分のままで幕府の講武所の助教授に任じられます。その有能さと勤勉さでどんどん世に知られるようになりましたが、粗衣で無礼、怪異な容貌、しかし口を開けば理路整然という、ある種の人間には大いに煙たがられるタイプの人間です。これがスポーツの世界だったら、「熱血指導」だけが売り物の指導者には「自分の言うことを聞かない優秀で有能なアスリートやコーチ」ということでひどく憎まれるでしょう。江戸で蔵六は知己を増やしますが、その中で特に重要だったのが、久坂玄瑞と桂小五郎でした。蔵六は尊皇攘夷にも開国にも興味はありませんが、自分の軍事専門家としての能力は現場で試したいと思っていました。そして、自分の故郷の人間とのつながりが、そのために重要なものになっていくのです。ちなみに桂小五郎も「理性」を重要視するタイプの人間で、だから後に大村益次郎が暗殺されたときに、政府要人の中で一番悲しんだそうです。ちなみに、薩摩の出身者たち・長州も含むこちこちの尊皇攘夷派などで、益次郎の死を喜んだ人間も多かったそうですが。ともかく桂小五郎の尽力で蔵六は宇和島藩から長州藩に異動、兵学と医学の教授となります。そこで高杉晋作が組織した奇兵隊が「戦闘は武士に限定」という「江戸の常識」を覆したのを現実のものとして目にしたことは、蔵六、おっと、この時にはもう藩命で益次郎に改名していたから大村益次郎に、大きな影響を与えたことでしょう。益次郎は「長州国民戦争」の構想を立てます。「国民皆兵」です。これは「武器を持つ特権」によって「自分たちが一番エライ」と思っている侍には大きな衝撃でした。しかし幕府の征討軍が押し寄せてきている以上、どんな手でも使って戦わなければなりません。益次郎は石州口の指揮官として“実戦デビュー”をします。局地戦の戦況だけではなくて、大局を見ながら作戦を立てるのですから、実に鮮やかな勝ち戦です。
 そして「官軍」でも大村益次郎の活躍は続きます。しかし「村医者上がりの長州者」に対する反発はどんどん盛り上がっていきました。上野の彰義隊を攻めるときも、薩摩の参謀たちは益次郎が何を言ってもすべて反対します。しかし益次郎はそういった参謀を解任し、とうとう自分の意見を通し、さらに快勝をしてしまいます。反対者の立場は根底からなくなってしまいます。こうして益次郎に恨みを抱いた人物の一人に海江田信義がいますが、彼がのちに大村益次郎暗殺の舞台となった京都で弾正台の責任者をやっていて、犯人の処罰を避けようとしたのには、いろいろきな臭い噂が流れました。
 大村益次郎がもう少し世渡りが上手だったら暗殺はなくて明治維新はもう少し違った形になっていたかもしれない、と私は夢想します。「ご親兵」を出すとなると「どの藩から兵を出すか」で熱い議論になる時代に、「藩ではなくて国」「武士による武力ではなくて国民皆兵」を構想できる人間だったのですから。
 こういった人は、幕末〜明治期に限らず、平成の世でも人気はないだろう、と私は感じます。だけど、自分の大言壮語に酔って刀を振り回すだけの人間と、どちらが日本にとって有為の人かは、明らかだと思うんですけどね。


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