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2015年01月20日06:58

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偶像崇拝

 イスラムでは偶像崇拝が禁止となっていますが、実は仏教も本来は偶像崇拝禁止でした。仏陀は「自分を崇拝しろ」ではなくて「仏の教えに従って自分たちが努力しろ」と説いていたのですから、「自分」どころか「自分の似せ絵」を崇拝する態度を是とするわけがありません。しかし人間は弱いもので、何もないところ(=「無」)を拝むなんてことは頼りなくてできません。それでも仏陀の影響力が強かった間は偶像崇拝は露骨には行われていませんでしたが、仏教が西に広まって彫刻大好きのオリエントや古代ギリシア文明と出会うとそこで盛んに仏像が作られるようになり、その影響がこんどは東に広がって、アジアの「仏像ブーム」になった、と私は理解しています。
 仏陀さんは「拝むより精進しろ。拝むにしても、せめて自分の似せ絵ではなくて自分の教えを拝め」と言いたいのではないか、と私は思いますが、仏陀さんに会ったことはないのでその真意を忖度するのはやめておきます。

【ただいま読書中】『大仏はなぜこれほど巨大なのか ──権力者たちの宗教建築』武澤秀一 著、 平凡社、2014年、840円(税別)
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 聖武天皇の天平六年(734)4月7日(阪神淡路大震災と同程度と推定される)大規模な直下型地震が起きました。天皇は自分の不徳を恥じ、大赦を命じました。しかし余震や大きな地震が続き、人心は乱れます。さらに翌年、太宰府から「疫病(おそらく天然痘)」が全国に広がります。人々はばたばたと死に、さらにその翌年は大凶作。その翌年には疫病が再流行。
 「天命思想(統治者は天の命によって統治をしている)」を持つ聖武天皇は、自分の徳が天の基準に不足しているために天罰として日本に災害や疫病が起きている、と考えたのでした。当時の日本の人口は450万人くらいと推定されていますが、その内100〜150万人が疫病で死亡した、と推定されています。今の日本だったら4000万人くらいがばたばた死んでしまったのと同じような状況なのです。
 聖武天皇は天平九年に「国ごと」に釈迦像と菩薩像を作り大般若経を写経すること、と命じます。「神」から「仏」に祈りの対象を移しています。天平十二年には法華経の書写と七重の唐の建立を全国に命じ、十三年には国分寺建立の詔です。地震・飢饉・疫病を鎮めるためならなんでもやる覚悟のようです。
 洛陽から10km南、龍門石窟には北魏の時代から仏像が彫られていましたが、七世紀後半に開かれた奉先寺洞には高さ17mの巨大な盧舎那仏が彫られました。盧舎那仏とは「世界そのもの」です。だから巨大でなければならなかったのです。完成したのは西暦675年。その噂は当然日本にも伝わっていたはずです。
 そして天平十五年(744年)大仏建立の詔が発せられます。建立の場所は紫香楽宮。しかし工事が始まってすぐ、また大地震。天皇は平城京に帰りますが、そこでまた大仏建立を再開します。こんどの場所は東大寺(当時の呼び名は金鐘寺)です。聖武天皇は「華厳経の世界観(世界は蓮華から生み出され、巨大な蓮華の中に存在する)に基づく理想の仏国土」を作ろうと考えていたようです。これは重大な「宗教革命」です。そこで問題になるのは、アマテラスなどの「神」をどうするか、でした。そのため「神仏習合」が画策されることになります。
 そして749年聖武天皇は出家して娘に生前譲位、という前例のない行為をします。以後も、皇室と仏教の密接な関係は続きました(道鏡はその好例でしょう)。
 しかし、釈迦仏と盧舎那仏は「仏の立場」の点では“異質の関係”です。ではどうして盧舎那仏が生まれたのか。著者はインドに飛びます。ただ、インドに「大仏」はありません。アジャンター石窟の涅槃仏でもせいぜい7m。奈良の大仏の半分です。もともと仏陀は「形あるもの」を否定していました。仏陀の死後、その禁を破って作られたのが巨大なストゥーパ(仏塔)でした。「塔」といっても、半球状の台地からの盛り上がりのような建築物なのですが。そしてそれが中国・日本に伝わって五重塔になったのです。
 同じような半球体を有する巨大な宗教建築として、著者はローマのパンテオンも思います。火事で焼失したパンテオンは長方形でしたが、サーンチーのストゥーパができて200年後にパンテオンを再建したハドリアヌス帝は円形神殿として当時としては世界最大のドーム天井を建設しました。不思議なことにサーンチーのストゥーパとパンテオンはほぼ同じ大きさです。
 ローマ・インド・中国・日本を俯瞰することで、統治者が宗教者である場合にどのような宗教建築が建造されるのか、を著者は一般化して見透そうとします。そこで見えてきたのは、文化や宗教が一方的に伝播するのではなくて、“逆流”を伴いながら複雑に影響を与え合っている世界の姿でした。「異教」と言いますが、実は共通部分が隠れている場合が多いのです。そういえば日本の仏教にも儒教や神道はしっかり影響を残していますね。ふだん「信者」はそんなことは意識していませんが、「何かを信じる人の姿」には、「人の本性に基づく“共通成分”」がにじみ出るものなのかもしれません。


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