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2015年01月12日08:09

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予言された東京オリンピック

 「東京オリンピック」と言えば、私は1964年の聖火リレーを肉眼で見たことを記憶しています。
 1988年に発表された『AKIRA』(大友克洋)では「“新型爆弾”によって一度は廃墟と化した東京が、2020年の東京オリンピックを翌年に迎えて再開発ブームに沸いている」を時代背景として物語が展開されました。60年のローマオリンピックや64年の東京オリンピックが、戦争からの復興の象徴として開催されたことも『AKIRA』の「東京オリンピック」は背景に持っているのかな、と私は思っていましたが、最近では「2020年」を“当てた”ことから大友克洋を予言者扱いする向きもあるのだそうです。それだったらAKIRAでの「1982年の東京壊滅」も当てていないといけないのでは?なんてことも私は思いますけどね。まあ、こちらは当たらなくて良かった、と思いましょう。

【ただいま読書中】『地図で読み解く東京五輪 ──1940年・1964年・2020年』竹内正浩 著、 KKベストセラーズ、2014年、1000円(税別)
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 昭和6年の柳条湖事件を発端に関東軍は満州を制圧、昭和7年3月に満州国を建国します。中国は国際連盟に提訴、リットン調査団が4〜6月に満州に派遣されることになりました。それに対する反応の一つが「運動会」でした。満州各地で建国記念運動会が催されたのです。4月1日首都新京(旧:長春)から5月28日の関東州大連(日本租借地)まで19の運動会が開催され、参加者は10万人・観衆は16万人でした。「満州国民がこんなにも建国を喜んでいる」のデモンストレーションだったのでしょう。さらに「満州国代表」をロサンゼルスオリンピックに参加させようとしますがIOCに拒絶されます。
 中華民国も対抗して10月10日に華北運動会を開催します。そこで注目されるのは、同年のロサンゼルスオリンピックに参加した劉長春が「遼寧省代表」として参加していたことでした。「遼寧省」は「満州」の一部で、満州国ではすでに「奉天省」と改名していたのです。スポーツと政治が密接に関係をしています。
 1940年(昭和15年)のオリンピック招致も政治が絡んでいました。東京とヘルシンキ(フィンランドは当時の長距離王国でした)が激しく争っているところにローマが割り込みますが、イタリアのエチオピア出兵を認めるならその国の方の支持に回るという含みも見せています。ともかく1936年にベルリンで開催されたIOC総会で「東京開催」が正式に決定されます。さて、準備を始めなければなりません。東京市は大騒ぎとなりますが、主競技場の候補地が7箇所も挙げられるなど、紆余曲折が予測される幕開けでした。本書に掲載されている地図や陸軍の空中撮影写真を見ると、代々木練兵場(現在の代々木公園)や駒沢ゴルフ場(現在の駒沢オリンピック公園)など広さはそれぞれ十分に見えますが、アクセスなどをどうするかは大問題だったようです。自転車競技場は芝浦九号埋立地で地鎮祭がおこなわれました。その名残が「五色橋」に残っています(現在の橋は戦後のものですが、初代の橋は戦前に作られて開通式は自転車競技場の地鎮祭と同時におこなわれました。主柱の橋名板の揮毫は当時の東京市長のものです)。
 しかし戦争がすべてをぶちこわします。鉄材の統制・起債の不許可・各国の不参加表明……そして「東京オリンピック」は「無期延期」となります。あまり知られていませんが、第五回冬季オリンピック札幌大会も「延期」となりました(当時は夏季オリンピックの開催都市が冬季の優先開催権を持っていました)。実は同時に万国博覧会も開催予定だったのですが、これも「延期」。「東京」だけではなくて、万博は30年、札幌は32年の「延期」となります。
 東京の返上を受けてIOCはヘルシンキに会場を変更しますが、39年11月にソ連がフィンランドに軍事侵攻(ついでですが、ドイツのポーランド侵攻は39年9月)。もうオリンピックどころではなくなってしまいました。さらについでですが、44年にはロンドンオリンピックを開催することも決まっていましたが、これも中止となりました。戦争は健全なスポーツの敵です。
 敗戦で日本はIOC加盟国ではなくなり、アマチュア競技団体もほとんどが除名となっていました。ゼロどころかマイナスからの再出発です。しかし「スポーツ復興」を目指し、早くも昭和20年12月に国民体育大会の開催が決定されます。第一回大会は昭和21年11月に当時戦災が一番少なかったであろう京都で。第四回は東京でしたが、占領軍から施設を“借用”する形で開催されました。
 国際大会でも日本はひどく冷遇されていましたが、東西冷戦下で日本が「西の一員」となったことで風向きが変わります。52年のヘルシンキオリンピックに日本は戦後初めて代表を派遣します。同年「60年オリンピック開催」に東京が立候補。ただ、この時は準備不足の上にライバルが多すぎました(アメリカ国内だけで6都市が立候補しています。ブランデージ会長のアドバイスもあり、東京は64年開催に本気で立候補、ついに決定を勝ち取ります。しかしそれは、「苦難」の始まりでもありました。
 まずは選手村。朝霞村の米軍宿舎跡を選手村にする予定でしたが、アメリカから使用許可が降りません。「返還してくれ、それが無理ならせめてオリンピック中だけでも借用を」という日本政府の願いはあっさり却下。その代わりに、ワシントンハイツ(旧代々木練兵場)の施設を調布に日本負担で移転させるなら、返還してやろう、という申し出があります。米軍将兵用の宿舎があったため、それはほとんどそのまま選手宿舎に転用されました。
 明治神宮外苑競技場は、大正末に完成し、戦前の陸上競技のメッカでしたが、昭和18年の出陣学徒壮行会の会場としての記憶の方が大きいでしょう。昭和19年には競技場を含む外苑全体が陸軍に重用され、軍馬の訓練や物資の備蓄に用いられます。戦後は占領軍に接収され、昭和27年に返還。アジア競技大会開催に合わせて昭和32年に解体され、霞ヶ丘国立競技場として新しく建築されました。そしてそれがオリンピック用に拡充されます。
 昭和39年は、日本が「先進国」になった年でした。「オリンピックが開催できる」ことがその一つですが、IMFでも「円」が「交換可能な国際通貨」と認められ、日本人の海外渡航も自由化されたのがこの年です。
 中華民国参加問題で東京オリンピックをボイコットした中華人民共和国は、10月16日に初の核実験をおこないました。冷や水を浴びせる、のではなくて、オリンピック開催中の日本に放射性降下物を浴びせたわけです(実際に10月18日に新潟に降った雨水から放射性物質が検出されています)。そういえばあの頃「傘をささずに歩いて雨に濡れると、頭がはげる」なんて軽口も言われていましたっけ。ドイツは、56年メルボルン・60年ローマに続いて東京でも東西が統一チームを作って参加していました。ただし「混成チーム」ではなくて、競技ごとに東西で決勝をおこなって勝った方が「統一チームのメンバー」として参加する方式でした。冷戦というのは……とため息をつきたくなります。
 「東京オリンピック関連」で首都高や新幹線は有名ですが、淀橋浄水場(現在の新宿副都心の場所)の移転や道路の名称が定められるようになったり歩道橋が普及したのも東京オリンピックが契機、というのはあまり知られていないそうです。私も知りませんでした。そういえば、北京やソウルのオリンピックで街の美化を熱心にやっていましたが、東京でも、隅田川の水上生活者を追っ払ったり街の美化運動(立ち小便の禁止運動や駅に痰壺を設置したり)が行われました。「外国からの視線」はどこでも気にするんだな、とこちらは私は微笑ましく思い出しています。水上生活者には微笑ましい思い出ではないでしょうが。


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