mixiユーザー(id:20556102)

2024年03月20日05:06

97 view

中井守恵の歌(2)

あおむけになって星座を見上げたしなぎ倒された樹としてわれら

…被災してしばらく避難所で暮らしていた守恵さんの一連より。見上げた星座がもはやおそろしい光のつぶなどではないことを祈りたい。今まで、守恵さんの歌の中で、「樹」はあくまで他者にしてひとをエロスへいざなうものだったが(例えば《樹の下に読書をすれば禁断の欲求がでる 服を脱ぎたし》…「短歌人」2010年9月号)、もはや「われら」は「樹」なのだ、と詠われている。災害はわれらを一介の自然存在へ還元した。そうしたものとして星座(はあくまで人間が織ったものだ)など見上げるところから、また、始めようじゃないか、という思いが伝わる。しかし、この「われら」とその外なる者との間の溝は、佐藤通雅さんが書かれていたように(「路上」119号)かなり深いものなのではないか、ということを思う。少なくとも「がんばろう日本!」などという空虚なスローガンでそれを埋めることはできない、とその「外」の者はよく思い知っておきたい。もちろん、いつかまた、その立場は逆になるのかもわからないのだが。(2011年7月号)

ひび割れたものがあまりに多すぎて豆腐にさえも馴染めなくなる

…作者は仙台で被災し、一時、避難所にいたが、その後も普通の暮らしとはいささか隔たった環境で当面の日々を送っている、と聞いた。そのような背景を思って読むと、そうか、豆腐…、と立ち止まってしまう一首である。壁のひび割れも豆腐のひび割れも、ひび割れには違いない。この歌を目にして以降、冷奴を食べるたびにそのひび割れが気になってしまっている。(2011年8月号)

胎教というにあらねどさまざまな土地の国歌をくちずさみやる

…「胎教」8首の7首目。《怖いものひとつずつ減りいまはただ子を産むことをすこし畏れる》(「短歌人」2010年6月号)と詠んでいた守恵さんが、先月号から胎内の赤ちゃんの歌を詠まれている。2年前の歌の結句は、もとより「恐れる」ではなく「畏れる」である。胎教というにあらねどと言われているけれども、結果的にはこれは胎教でありましょう。何の気なしにふと口ずさんだ歌がおのずと伝わる、というぐらいがちょうどよろしい。それにしても「さまざまな土地の国歌」(「国の」ではなく「土地の」である)というのがユニークだ。守恵さんは日頃から世界の国歌を集めたCDか何かを愛聴されているのだろうか。《湯の中にからだ沈めてぬばたまのアイルランドの国歌をうたう》(2011年10月号)という歌もあった。全員起立して君が代を斉唱しなければ他国の国歌に対する畏敬の念も育たない、などと居丈高に言う必要はない。さまざまな土地の国歌をそれとなく口ずさんでいる。いいではないか。そう言えば、神奈川県民の歌とか群馬県民の歌とかいうのもある。宮城県民の歌もあるのだろうか。長野県民の歌が何と言っても有名だが・・・。(2012年6月号)

膝上の子は眠りたりバークリーの観念論をわれら語れば

…「膝上」はふつうは「ひざうえ」だろうが、この歌の場合は「しつじょう」と読みたいと思った。音読みの硬さが「バークリーの観念論」とよく響き合うからだ。一連中に《くたびれてきみは眠りぬペンギンの雄のごとくに息子に尽くし》という歌があるが、この歌の「われら」は、われと「きみ」だろうか。ああ、若いなあ、いいなあ・・・、と思ってしまった。「バークリーの観念論」との対比で、「膝上の子は眠りたり」というさまが、いっそうあどけなくかわいらしく見えてくる。まことにたくみな詠み方をされている一首、と思った。「バークリー」という哲学者名の選択もいい。「ヘーゲル」などではありきたりになってしまう。(2012年11月号)


【最近の日記】
中井守恵の歌(1)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1987199707&owner_id=20556102
斎藤幸平+松本卓也編『コモンの「自治」論』(集英社 2023)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1987164742&owner_id=20556102
11年前の短歌人横浜歌会
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1987151562&owner_id=20556102
4 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2024年03月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31