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2018年06月28日07:29

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努力をさせる努力

 「努力とは、それができる才能だ」と言ったのは誰でしたっけ? ともかく「努力が20できる人」もいれば「努力が80できる人」もいるわけで、その差が能力差とも言えるでしょう。ただ、「20できる人が20努力している」のと「80できる人が80努力している」のには「どちらも全力で必死で(自分の能力の)100%努力している」という共通点があります。
 もう一つ共通点がありました。「余裕がない」。「100%の努力をしている」わけですから、他のことをする能力的な余裕がないのです。
 ということは、他人に向かって「なんでもっと努力をしないんだ」とか言ってさらに努力させようとしている人は、「他人のことに口を挟む余裕」がある、つまり「自分では100%の努力をしていない」ことになります。自分で努力しないで他人には努力させようと努力する、って、なんだか、変。
 ちなみにたとえば「客観的には20しか努力していない人」の「能力」が「10」だった場合、その人は「200%の努力」をしているわけですから「20しかしていない、○○君は80もやってるぞ」とか非難や叱咤激励をするのではなくて「そこまで無理をするな」と言うべきでしょうね。

【ただいま読書中】『二流の愉しみ』山本夏彦 著、 講談社、1978年、980円
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 辛口のエッセイが並んでいます。内容は読んでもらうのが一番。
 たとえば「ごてる」の章では「相手が誠心誠意謝る」場合には「賠償金はいらない」になるのではないか、と著者は言います。かつての日本では「誠心誠意謝る」相手には「どうぞ手をお上げください」などと言って許す(当然そのときは無料)、だったのが、いつの間にか「金で解決」の方を選択することになって、そのため「衷心から悔いたり詫びたりする心」を日本人は失ったのだ、だから「謝る」のかわりに「お金」しか私たちはすでに選べない、だから賠償金をもらった上に「土下座しろ」などと要求するのは間違いだ(そもそも土下座させても相手は誠心誠意謝ってはいない)、と著者は述べます。
 正義についても著者はけっこうシニカルに述べています。私もかつて「お茶の間の正義」について考察をしたことがありますが、何十年も前に著者に先を越されていました。残念。でもまあ、自分の思考の方向性が著者と似ていたのは、ちょっと嬉しく感じます。
 空気を読まず大勢に流されず、著者は敢えて少数派の道を意図的にえらびます。それを象徴するのが「以前日の丸は賛美された。今は呪詛される。だから私は、その両方を信じないのである」ということば。ここでは「賛美した人」と「呪詛する人」が実は「同一」であることが指摘されています。そういえば私自身も「『政権交代』の前には自民党を支持して『政権交代』で民主党を支持した人」について似たことを感じます。こんなことを広言したら、私もまた「嫌われ者」になっちゃうかな?というか、すでにそうですかね。


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