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2018年06月02日07:17

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銃と酒

 アメリカ人は、銃を所有(使用)する権利についてはものすごく執着するのに、かつては禁酒法を成立させていた、というのは、個人の自由や権利について日本とは根本的に違うスタイルで生きているんだな、と思うことがあります。

【ただいま読書中】『アメリカ禁酒運動の軌跡 ──植民地時代から全国禁酒法まで』岡本勝 著、 ミネルヴァ書房、1994年、3884円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4623024652/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4623024652&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=918ceec108c21de1e4930efb26e4b6af
 メイフラワー号にはビールや蒸留酒が積まれていましたし、植民地人はすぐに自家製のビール製造(麦を水に浸しておくだけ)を開始しましたが、これはアルコール濃度が1%と低く、ほとんどの「アルコール」は輸入に頼っていました。主力商品はラム酒(アルコール度40%以上)とアップルサイダー(10%)。
 「過度の飲酒」は17世紀初頭のイギリスですでに社会問題化していて、アメリカにもそれがそのまま持ち込まれることを植民地人は警戒し、政府(植民地社会はまだ不安定、労働力が不足)と教会(泥酔は不道徳な行為)が「過度の飲酒」を罰することにしました。
 19世紀アメリカでは穀物が過剰となり輸送力は貧弱だったため農民は穀物をウィスキーに加工して売ろうとしたため、安価なウィスキーが豊富に出回りました。それに対してボストンで発足したアメリカ禁酒協会は(それまでの「節酒運動(適度に飲みましょう)」ではなくて)「濃度の高い蒸留酒の全面禁止」を打ち出します。しかし「蒸留酒は禁止、醸造酒は禁止せず」の理由が「アルコール濃度の違い」ではない、というのには私は笑ってしまいました。詳しくは本書の第二章をどうぞ。
 1840年代には「ワシントニアン」と呼ばれる人々の絶対禁酒運動(アルコール飲料はすべて禁止)が起きました。アルコール中毒者を救済しようとする動きは、それまでにない斬新なものでしたが、それだけアルコール中毒に対する知見が深まった(患者が大量に発生するようになった)のかもしれません。ここで飲んだくれは「犠牲者」と呼ばれています。ただ、ワシントニアンの活動は、道徳的な主張の限界も明確にしてしまいました。ここから法による規制(販売だけではなくて製造の規制)が始まります。最初に州禁酒法が成立したのはメイン州で、1850年代に「メイン法」は11の州と2つの準州で成立しました。ただし州法ですから、他の州や外国での製造・搬入は禁止されません。裏口は全開だったわけです(というか、酒場は違法のはずなのに堂々と営業していました)。禁酒法に反対する者も多く、メイン法が廃止される州もありました。南北戦争が始まり、禁酒に関する論争は一時“休戦"となります。
 ここで「女性解放運動」が絡んできます。4年前に読んだ『歴史のなかの政教分離 ──英米におけるその起源と展開』(大西直樹・千葉眞 編、彩流社)でそのへんの予備知識(教会とフェミニズムが協力して禁酒運動を行ったこと)は仕入れていたので、第五章のWCTU(婦人キリスト教禁酒同盟)の話は読みやすいものでした。また“過激派"として、手斧を持参して違法酒場打ち壊し運動を実践するキャリー・ネイションという非常に印象的な女性も登場します。彼女を、精神異常者の行動・売名行為などと誹る人もいますが、もしかしたら本人は「イエス・キリストがエルサレム神殿内で商売をしている屋台をひっくり返した行為」になぞらえていたのかもしれません。完全に“確信犯"でやっていますから。
 1890年代、多様な改革を求めるのではなくて「禁酒」だけに焦点を絞り、さらに全国レベル(連邦レベル)での組織化を各地の禁酒団体が模索し始めます。「選択と集中」です。1905年に「ASL(American Anti-Saloon League)」がワシントンで結成され(1905年にAnti-Saloon League of Americaと改称)、指導監督官に就任したラッセルは団体を「既存の政党とは距離を置いた、純然たる圧力団体」にします。ラッセルは各州にピラミッド型の組織を作り、各政党内に禁酒に賛同する議員を増やしていきます。とうとう「ウェブ法(禁酒法が存在する州に他の州からアルコール飲料を運び込むことを禁止)」に対するタフト大統領の拒否権さえ覆す数の議員を上下院に確保してしまいます。ならば次の目標は(タフト大統領が拒否権の根拠とした)連邦の憲法を改正することです。
 1917年にアメリカはドイツに対して宣戦布告をしましたが、これが禁酒運動に追い風だったのか逆風だったのかは、意見が割れているそうです。ともかく、宣戦布告の承認をするための臨時議会にASLは憲法修正を求める法案を提出、ついに合衆国憲法修正第18条が成立します。それに反対するのは、非合法勢力(アル・カポネなど)と合法勢力(酒造業界、流通、消費などの業者)でした。そして、禁酒法が徹底しないことへの失望と大恐慌により、禁酒法に反対する世論が増え、1933年に議会は憲法修正第21条(修正18条の廃止)を可決します。ただ、カンザス・オクラホマ・ミシシッピのように州によっては第二次世界大戦後まで禁酒法を維持したところもありました。
 「飲酒問題」がある限り「禁酒運動」は廃れないでしょう。だけど人は酒を飲みたいんですよね。さて、この話はいつまで続くのでしょう?


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