「それは確かにぼくの高校二年生の修学旅行のフィルムだった。
最初に懐かしい級友たちの顔が次々と映し出され、ややあってからぼく自身も
そこに登場した。誰かに頼んで撮ってもらったのだろう。高校二年生のぼくは
明るい顔で笑っていた。
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馬鹿みたいな話だが、ぼくはこの八ミリフィルムを観て、
『本当に高校生だったんだなあ』
と改めて感じ入った。そして十七歳の倍の年齢になってしまった今の自分を、
何だか鬱陶しく思った。
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もちろん当時は高校生なりの悩みや問題も抱えていたけれど、今にして思うと
その悩みすらも楽しんでいたような印象がある。
修学旅行の八ミリフィルムに写っていた、あの屈託のない笑顔。あんなふうに
笑っていたなんて、それだけでも今のぼくにとっては夢のようである。」
(原田宗典『十七歳だった!」あとがき)
最近、ふと「疲れた」と感じることがある。
晩飯を食べているとき、突然嫌な出来事とか心配事が頭をよぎったかと思うとそれで頭がいっぱいになって、手が止まってしまって、お箸をおいてじっとその気持ちが過ぎ去るのを待つ。とりあえずなんとか落ち着いた後、みそ汁をすすりながら「なんか疲れたなあ」とかしみじみ思ったりする。そんな夜がたまにある。たぶんみんなそうなんだろう。
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身体と同じように心にもエネルギーが必要で、それが少し足りなくなっているときなんだろう。それがどんなメカニズムで増えたり減ったりするのか未だによくわからない。お腹がすいたらご飯を食べるように、わかりやすく補給できればいいのにと思うこともある。けどそういうもんじゃないんだろう。きっと。
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そんなとき、どうしたらいいんだろう。きっと「頑張る」しかないんだと思う。
「うつの人に頑張れと言ってはいけない」という考えが一般化している影響だと思うのだが、ぼくが仕事とかで大変そうにしていると周囲の人たちはむしろ「無理するな」とか「逃げてもいい」とかそういうことを言ってくれる(うつとかでは全然ないのですが)。
それはとてもありがたいし救われているのだけども、その状況はぼくが頑張らない言い訳に長く使われていたような気がする。
少なくとも自分に対しては、「歯ぁ食いしばって頑張れ」って言わなければいけないときがあるのかもなあ、なんて、今更ながら思ったりするのだ。
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「あなたに守ってもらいことが三つあります。
嘘をつかないこと。
僕以外の人との約束を破らないこと。
誰かの痛みを知ってあげて、なおかつその傷に触れないこと。
神は小さき所に宿る、という言葉があります。
僕は神さまはあまり信じませんが、この場合の神は、愛に置き換えられるような
気がします。
ごく些細なこと…例えば階段を下りる時に君の足元から目を逸らさずにいること。
眠る前に肩が出ないように毛布を掛け直してあげること。
悲しそうな顔をしていたら理由は聞かずにそばにいてあげること。
そんな所に、愛は宿っていると思えるのです。
だからそんな所から、僕は君と始めたいと思います。」
(原田宗典『やさしくって少しばか』)
なんだか節目の時期だなあと感じることがあって、改めて今思っていることを書いて
みたくなった。これからどうやって生きていきたいのかなあ、なんて。
人生とか生き方とか大げさなことを言うつもりはないのだけど、生きている我々が
そういうことを考えるべき日だと言えなくもないと思う、今日は。たまたまだけど。
だから、敢えて書いてみる。
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ぼくは「志」と「誠意」が大事。いつもそう思っている。だから、
「志」と「誠意」をもって、一生懸命頑張る。
先をみると気が遠くなってしまうから、
一日だけ頑張る。歯を食いしばって頑張る。
そんな一日を積み重ねて、人生を過ごしていきたい。
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十七歳の倍の年齢になろうとしているぼくは、
そうやって鬱陶しい自分を屈託にまみれた顔で、笑い飛ばせるのかな。
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