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2016年08月26日07:59

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忍ぶ恋

 百人一首的には「じっと心に秘めた恋」のことになりますが、「忍ぶ」を“積極的”な意味で解釈したら「人目を避けてこっそり成就させた恋」という意味にも取れないでしょうか?

【ただいま読書中】『忍者の歴史』山田雄司 著、 KADOKAWA(角川選書570)、2016年、1600円(税別)
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 史料に始めて登場する「忍び」は、『太平記巻二十』です。足利軍が男山の城を攻めあぐねていたとき「逸物の忍び」がひそかに忍び込んで神殿に放火して敵を大混乱にした、とあるそうです。他の巻にも忍びが侵入したが見破られて失敗したりの話があり、著者は他の史料と付き合わせてこれらの「忍び」は実在した、と結論づけています。著者は、忍びの出身母体を「悪党(傭兵や道を外れた山伏たち)」と仮定しています。
 御成敗式目の注釈書や日葡辞典によると、「忍び」には「窃盗犯」と「城や陣営にこっそり忍び込んで情報を集める間諜」の二つの意味があったようです。
 伊賀・甲賀は忍者の里として有名です。そういえばスイスはスイス傭兵で有名ですが、山国は傭兵(や忍び)を生み出しやすい土地なのでしょうか。甲賀伊賀はどちらも大名の力が弱く、国人・土豪が自治組織(伊賀惣国一揆、甲賀郡中惣)を形成していました。長享元年(1487)足利義尚が近江六角高頼を攻めたとき、六角軍は甲賀衆とゲリラ戦を展開、その時の戦いぶりによって甲賀衆と伊賀衆の名が日本に知れ渡りました。
 「忍び」には様々な別名があります。「奪口(だっこう)」「透波(すっぱ)」「風間(かざま)」「乱波(らっぱ)」「夜盗組」「草」「かまり」「軒猿」「やまくぐり衆」……いろいろな戦国大名が残した文書では、地域によって本当に様々な名前で呼ばれたことがわかります。北条氏の文書では「風摩(かざま)」とわざわざふりがなまでつけていますが、忍者漫画で有名な「風魔」はこの「風間」「風摩」を「ふうま」と読んでそれに「魔」の字を当てたのでしょうか。
 泰平の世になると、忍者の“需要”が減ったためでしょう、それまで口伝だった忍術を忍術書にして残そうとする動きが生じます。絶滅する前にせめて文字にしておこう、ということでしょう。そこで面白いのは「盗賊とはちがう」と強調されていることです。当時は両者が混同されていたからでしょう。というか、区別が明確につけられるのかな? 他にも「命を惜しめ(殺されたら情報を持ち帰るという使命が達成できないから)」「道具には名前を書くな(捨てて逃げる場合が多いから)」「肉体的な強靱さよりも才覚(当意即妙の反応、情報を聞き出すコミュニケーション能力、記憶力、他の職業人に化ける力など)が重要」などと実に“実用的”な教えが並んでいます。武術よりも重視されているのは火術です。「忍者の攻撃」では敵陣に忍び込んでの放火が重視されていたのでしょう。
 「伊賀」で重要なのは、織田軍が攻め込んだ「天正伊賀の乱」と、本能寺の変直後の徳川家康の伊賀越えです。服部半蔵や伊賀同心については様々な物語がありますが、はじめは「忍び」だった伊賀者はやがて江戸城の警備が主任務になっていったようです。また甲賀者も関ヶ原の乱以後にやはり警備を担当するようになりました。実際の戦争で忍びが活躍した最後の戦いは、島原の乱です。甲賀者が十名、夜陰に紛れて城に侵入して掘の深さや塀の高さを調べていますが、面白いのは、敵に見つかって這々の体で逃げ出した失敗まで記録されていることです。
 江戸市井には忍術道場もありました。今の私たちが忍者に抱くイメージ(忍者装束、背に刀、軽業まがいの体術、どろんと消える、手裏剣しゅしゅしゅ)は、このあたりから確立されていくようです。
 私は子供時代に忍者もの(「隠密剣士」「伊賀の影丸」「カムイ外伝」など)に夢中でしたが、ああいった「忍者」の正統な子孫は海を越えた映画の「007」(特に最近のアクション満載のもの)に引き継がれているのではないか、と思うこともあります。結局忍者は、世界で人気者なのかもしれません。


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