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2015年01月27日06:54

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ピアノの音色

 先日ラジオからガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」が流れてきました。よく聞くのはピアノとオーケストラの演奏ですが、今回は珍しいことにピアノ独奏版です。曲の後ピアニストは「ガーシュウィン自身が編曲した、ピアノ独奏用のものです」と言っていました。
 ピアノ独奏版があるとは初めて知ったことですが、同時に私はオーケストラ抜きでばんばん聞こえてくる「ピアノの音」の方にも注目していました。私がなじんでいるオーケストラのパートもピアノがやってくれるので、本当に良く「ピアノ」が聞こえるのです。そこであらためて気がついたのが「ピアノは『ド』とか『ミ』とか『ソ』とか言っていない」こと。それぞれの音の高さで特徴的な「ピアノの音色」が耳に聞こえるだけで、それが脳に達したら「ド」とか「ミ」に私が勝手に翻訳しているようなのです(私は絶対音感を持っていないから相対音感での話ですが)。すると、私がピアノ演奏を聴いて「ドミソミド」とか聞こえている「音」や「音色」は、一体どこで生まれているのでしょう?

【ただいま読書中】『江戸時代の医師修業 ──学問・学統・遊学』海原亮 著、 吉川弘文館、2014年、1800円(税別)
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 江戸時代は身分社会でしたが、医師はその中で扱いに困る存在でした。武家・平民・賎民のどこにも医師がいるのですから。これは西洋でも事情が似ていて、上流階級から奴隷まで医師が存在していて、しかもイギリスでは貴族を相手にする医師は同時に貧民街でボランティア医療も行なったりする、という一見訳の分からない状態になっています。
 国家試験も大学もありませんから、当時の医師は師弟関係で育てられた(「学統」を形成していた)ため、誰でも医師に勝手になることができたわけではありません。西洋でのギルドに相当するものと言って良さそうです。
 18世紀は杉田玄白らが「蘭方」を打ち立てようと苦闘していた時代です。ここには、患者がきちんとした診断と治療効果を求めるようになったことが時代背景としてあります。従来の漢方医学や名ばかりの見よう見まねの蘭方(長崎通詞がオランダ人医者の手技を見よう見まねで“学ん”で「蘭方医」を開業する、ということも平気で行われていました)に対する不満から、杉田玄白らは「本物の蘭方」を求めたのです。「市場原理」が日本の医学にももたらされた、とも言えそうですが、そういった社会の変化を反映して、開明的な藩では藩校として医学校を設立するところがあちこちにありました。本書では彦根藩が例として挙げられています。ここでは漢方医学の授業が行われていましたが、興味深いのは、優秀な村医を藩医として抜擢した例があることです。『解体新書』改訂版で知られる大槻玄沢は仙台藩江戸屋敷で藩医として勤めていましたが、藩の医学教育制度を改革しようとしました。カリキュラムだけではなくて、藩の医療環境の拡充まで視野に入れた提言です。
 テレビドラマで「医師が遊学をする」と言えば長崎ですが、実際には京都も人気の遊学先でした。本書には越前から京に遊学した医師の日記が紹介されています。勉学も頑張っていますが、日常生活の節約ぶりにも感心します。本代を節約するために書写しますが、その紙代にも悩んでいるのです。ただこの書写は、最新の文献を藩にもたらす、という効果もありました。こうして地方の書庫も少しずつ充実していくのです。鎖国下であっても、日本の知的水準は“凍結”はされていなかったのです。
 「文明開化」は何もないところに花開いたわけではありません。江戸時代に、こうしてあちこちの藩ですでにその“準備”はきちんと行われていたのでした。


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