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2015年01月19日06:45

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三くだり半

 高校の古文の授業で、教師がさらさらと黒板に三行と半行の文章を書いて「これが三くだり半だ。見ての通り三行と半行だから『三行半』と書く。ただし、これは男からの一方的な絶縁状ではなくて、離婚後に女性が再婚するときに『私は間違いなく独身です』という証明としても使えたので、結婚するときに女性の方があらかじめ三行半を確保しておくこともあった」と教えてくれました。それを聞いて「江戸時代に生きた人間の生活」に私は俄然興味を持ちました。
 私が古典や歴史が好きになったのに、この授業も一つの貢献をしていることは間違いないでしょう。
 教育改革とか言いますが、こういった「科目の境界を越えた興味を学生に持たせることができる魅力的な教師」を育てる視点が、行政の側にどのくらいあるのかな、とは思います。入試制度をちまちまいじっても、「勉強への興味」は向上しないと思えるものですから。

【ただいま読書中】『三くだり半と縁切寺 ──江戸の離婚を読みなおす』高木侃 著、 吉川弘文館、2014年、2400円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4642065830/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=767&creative=3999&creativeASIN=4642065830&link_code=as3&tag=m0kada-22
 「女子三従の教え」「貞女二夫にまみえず」の『女大学』の教えは、江戸時代には(非現実的な)タテマエで、むしろ明治になってから(実態として強制された)ホンネになったのではないか、と冒頭で著者は述べます。落語や黄表紙などで描かれる庶民の生活ではたしかに「女大学」は影も形もありません。武家社会でも意外に離婚(と再婚)が多いのです。そういえば「男は表、女は奥」のタテマエが武家でも村でもうまく機能していなかったことは、昨年9月5日に読書した『武家の女性・村の女性(鳥取県史ブックレット14)』にも書いてありました。
 最近の日本では離婚率が上昇していますが(人口千あたり1%を越えました)、江戸時代の慣習がまだ生きていたであろう明治初期の離婚率はその倍以上でした。日本人はけっこう簡単に離婚と再婚を繰り返していたのです。
 「三くだり半」に一応定型文はありましたが、実際の文書はバラエティーに富んでいます。興味深いのは婿養子の場合。婿を離縁する権限は養父にありましたが、その場合でも夫から妻への離縁状(と再婚許可書)が必要なのです。それなしで婿を家から追い出すと、養父が罰せられます。
 著者は「形式としては夫が妻を追い出しているが、実態は現在の協議離婚だったのではないか」と推測し、その根拠をいくつも挙げています。実際に「出ていけ!」と三行半を叩きつけて女房を家から追い出したとしてその女房が町役人の所に「三行半も渡されずに追い出されました」と訴え出たら、“証拠”も“証人”もないので罰を受けるのは亭主の方になるわけです。きちんと人別帳を訂正する必要もありますし、仲人を含めて周囲を巻き込まなければならなかったでしょうね。
 ただ、形式とは言え「離縁状は男が出すもの」である以上、それが得られない場合に女性の選択肢は狭まります。飛び出すことで別居は可能ですが、再婚ができないのが困るのです。そこで「縁切寺」の登場です。男子禁制の尼寺は、夫から逃れた女性が駆け込むためのアジール(避難所)としても機能していて、そこで3年経過したら縁が切れる慣習でした。ただ幕府は宗教統制の過程で寺のアジールとしての特権を制限し、東慶寺と満徳寺にだけ“縁切り”を認めました。ちなみにこの二つの寺はどちらも千姫に関係があります。奉行所は最初は「女性の側からの縁切り」に対して抵抗をしましたが、やがて(千姫の“権威”の影響か)二つの寺を支援するようになります。
 縁切りを望む女性が寺に駆け込むと、寺はすぐに関係者に連絡を取ります。それで話がまとまれば「内済離縁」の成立です。それが不調の場合正式の「寺法離縁」になりますが、これは3年もかかるので、(寺を含めた)関係者は全員それを望んではいなかったはず。ともかく離縁が成立したら、そこで必要になるのがまたもや「離縁状」です。もし夫が書かなかったら、奉行所は夫を「仮牢入れ」で脅すことになります。離縁状が手に入らないと女性も困ります。再婚するのに離縁状がないと密通と見なされますから。ちなみに公事方御定書では密通は死罪です。さらに、公的な処罰ではなくて、密通をされた夫が女仇討ちをした場合には、それが町人であっても(夫が妻を寝取られたことを公表するという恥以外には)おとがめなしでした。もっとも「恥」はいやですから、内々に慰謝料で手を打つことが多かったようですが(「間男は七両二分と値が決まり」という川柳があります。この値段は大判一枚分だそうです)。
 なお、離縁を望む妾が寺に駆け込んだ場合は、正妻の半分の期間で離縁は成立していたそうです。それだけの権利、と言うことだったのでしょう。
 「家制度」というのは封建的、というイメージですが、江戸時代の人たちはけっこう融通無碍に「家」の中と外で生きていたようです。歴史に残りやすいのは「タテマエ」の部分ですが、彼らが生きていたのは実は「ホンネ」の部分だった……って、それは結局今も同じことでしょうね。
 ところで、現代社会の「アジール」は、どこでしょう?


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