mixiユーザー(id:18559602)

2020年06月11日04:17

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交換条件であるか、どうか、


交換条件になれない場合、ものは
買われない。
身をきってまでも、それを
交換して、得ようと
文化的に、であれ、
生活必需品的であれ、
交換条件になれない場合、お金は流れない。

一般に、「交換条件」になるのは、その生をささえる何か、に、なるものであろう。

お金は交換にはじまり、交換に終わる。

お金自体がいくらあっても、
働く人が一人もいなかったら、
お金持ちは裸の王様であり、
貨幣、お金自体は支配のための
数値に過ぎなかったり、
タダの紙きれだったり、

つまりはお金が、自由の条件であるためには、
それなしでは生活できないようにすることにおいてであり、支配のための道具に過ぎないであろう。

お金がなかったら、人間ではなく、野に放たれた「人」になる。

お金は支配のための道具である。

お金がなかったら、希望が描けない。
もはやお金に飼い慣らされた
文化的な動物であるに
すぎない。

お金と欲望と人の支配。
しかし、いつかどんな権力者、
王国も、ついえさってしまう。

お金は一時的なもののはずなのに、
権力もね。
文学者が指摘を
よくするように、
泡のようなものなのだ。

しかし、いくら、交換条件である、
お金=公的な交換条件の数値 が、
多くても、社会がすなわち、きちんと労働する、人に仕える人達の体制を
維持出来なかったら、お金自体では意味がないのである。法とか国家は、
やたら生産力とか、働かせようとする、
お金の支配になんの前提の
説明もなく、うまれながらにして、
労働市場を確保し、
お金の意味を守ろうとする。
お金自体、それだけで、
労働市場がなかったら、意味はないのである。誰も、何も、してくれないから。

貨幣が自然に帰る、とは、そのようなある自然状態を社会が得ることでも、あるなら、最早、生産力は無意識のレベルで、稼働しているだろう。

会社を持ち、雇う側になると、
はっきり貨幣制度意識に支配されて、

選別するようになる。

この選別は、せっかく貯めた財産を
失いたくない、エゴなのだ。
会社の存続と発展が
社会における生に結びつき、
それは、やはり、人間自身の生であり、
転落と選別されることの拒否であるだろう。

ある自然状態の社会では、
もはや、そのような選別をする必要がない、生産力の無意識の時代である。
科学は無意味であるかのように、
到達度を保ち、
人間の無意識と
自然状態を解放する。

会社を持つと、契約を交わした
平等共有主義者が、自分の知り合いを
よこに並べて、仕事を得ようとしたが、
それは、その人自身にとって、競争相手を提供したにすぎない。

つまり、自分の仕事を
失うだけのことである。
そう、うまくはいかないのだ。

会社を持つことで、資本家メンタルで
支配され、そこから、心理的に
何が起きているか、記述できるから、

わたしの経済論のためには、
会社が必要なのだろうな。笑。
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