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2018年05月17日09:51

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あるとないとは同じこと?

デカルトは考える私以外のものはすべて疑わしいと考えた。それ以来、哲学者は懐疑論というものに取りつかれるようになってしまった。私たちのあらゆる知識は確かな根拠というものを持たないのである。

極端な話、自分の精神以外はなにも存在しないのではないかとまで考える人もいる。私は自分の両手をじっと見てみる。こんなにありありとはっきり見える自分の手が実はまぼろしかもしれないというのだ。

しかし、これはおかしな話ではないか、この自分の手が自分にだけ見えて他人からは見えないのならそれはまぼろしと言うしかないが、試しに妻に「私のこの手が見えるかね?」と訊ねたら、「見えるに決まっているじゃない、あなた頭は大丈夫?」と返ってくる。つまり、私の手は実在する。日常言語の「ある」という言葉の意味はこのようであったはずだ。しかし、デカルトは執拗だ。「『君の手がある』と言ってくれる君の妻も、実は君が作り出した幻影かもしれないではないか」というのである。そこまで言われれば、この私の両手を保障してくれるものは何もないことに気づく。

私の両手はこんなにもありありとしていて、しっかりとした感触もある。開こうと思えば開けるし、握ろうと思えば握れる。こういう状態を、通常「私の両手は『ある』」と言っていたはずだ。しかし哲学者に言わせると、もしかしたらこの両手はないかもしれないという。

なんかおかしい。哲学者の言うところの「ある」と「ない」はどう違うのか?

「ある」と「ない」、違う言葉を使うからには、それらにははっきりとした差異がなければならない。その言葉を使用する人は、その差異を念頭に置きながら使用するのでなくては、その言葉は空疎である。今、仮に私の両手が本当は存在しないのだと仮定したとしたら、それが実在する場合とどのような違いがあるというのだろうか?
「ない」と言うからには、ある条件の下ではそれが「ない」ということが明確に分かっていなくてはならないのではないだろうか。

だが、懐疑論というのはそこのところが分からない。根拠が示せないから懐疑論なので、「ある」と「ない」はどこまで言っても区別できない。つまり、神さまのように超越的な視点に立てば初めて区別できる「ある」と「ない」なのだ。この区別は決して我々の経験上には現れることがない。言葉上では区別できても、その区別は指示対象をもたない。「円い三角」と同じで、言葉では表現できても私たちの能力ではその内容を思い浮かべることができないのである。

だから、私の両手が「本当は」ないのだとしてもあるのだとしても、いずれの場合にもこの現実、このリアリティにはいささかも変わりはない。禅仏教ではこのリアリティを「恁麼」という一語で表現する。「このようである」というような意味である。そう、すべてはこのようなのだ、そこに「ある」とか「ない」とか新たな意味を付け加える必要は初めからなかったのである。
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