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2018年05月07日08:34

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真理は現前している (2)

「ものごとをあるがままを見るなどということができるはずがない。」というふうに言われることがある。私たちがなにかを見る時には必ず何らかのフィルターがかかっているということなのだろう。しかし、私に言わせれば、そのような考え方自体が、自分の感覚というものを科学的客観的な視点から俯瞰するという論理的思考の罠に陥っているのである。科学的客観的な視点というのも一種の架空、超越的でありドクサ(臆見)の種である。

「あるがまま見る」というのは、ひとつは言葉による再解釈をしないということである。言葉が介入すると必ず抽象化が行われ実相がゆがめられるからである。例えば、「鳥が飛んでいる」という言葉を聞くと人はそれぞれめいめいにいろんな鳥が飛んでいるさまを思い浮かべる。しかし、一般的な鳥や一般的な飛翔というものは実はどこにも存在しないのである。そのことは龍樹が「中論」において徹底的に論じているところである。西田哲学の純粋経験というものも発想はこういうところから来ていると考えて間違いないだろう。ハイデッガーもその辺には気がついていて、存在の一回性だとかテンポリテートとかいう概念を導入しているけれど、龍樹の方が徹底しているように見受けられる。

「あるがまま見る」のもう一つの要素としては、この世界を因果の結果としては見ないということだろう。哲学者はこの世界について、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」と問う。おそらくその前提としては、何もないことがニュートラルであるという思い込みがある。私はこのような世界の中に「すでに」投げ出されているのだから、今ある状態をニュートラルと考えるべきだろう。「今」、「ここ」、「私」、あえて言うならこれが原点である。禅の問題というのは、「今」、「ここ」、「私」を離れることはないのである。それは原点であるがゆえに、相対的な位置を記述することもできない、「今」、「ここ」、「私」がなんであるかということを語ることもできない。そのことについて胎の底から納得した時、この世界の原因を問うことはなくなるが、その絶妙さに対する素朴な驚きが残る。それが仏教でいうところの「妙」ということであろうと思う。

≪6.44 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。≫
( ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」 )

世界が如何にあるかということを思量することはできない、神秘はそのまま受け止めるしかないということだろう。
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