自分とは何だろうと思い、要素に分解してみる。「私は、〇〇である」の〇〇を埋めるようなイメージ。
「人間」とか「男」とかは、まあなんかわかるな。「日本人」とか、「〇〇出身」とか、「〇年生まれ」とか。少しずつ距離を離していくと、「〇〇大学卒」とか「〇〇社勤務」とか、そういうことになる。「年収〇万」とかさ。そうなると、それは「自分」なんかなあ、と感じる。
じゃあ例えば、「優しい」とか「冷たい」とか、「男らしい」「女らしい」とか、そういうところはどうかな、と考える。人によるのかもわからんが、やっぱり「自分」という気がしない。定義が曖昧すぎるからだろうか。相手や時と場合によって簡単に変わってしまうからかもしれない。
現実では、こうした要素の中で外側に現れるものが「自分」だと捉えられ、判断され、評価に晒される。外側に現れない部分に重きをおいている人は、そのギャップに悩んだりするんだろう。
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自分とは何だろう、ともう一回考えてみる。全然わからん。俺は何なんだ。どんな人間で、どんな人間だと思ってほしいのか。どんな人間だと思われたら、「理解された」と感じるのか。どの要素を愛されたら、本当に自分が愛されたと感じることができるのか。
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完全な相互理解などあり得ない。ぼくはあなたをわからないし、あなたはぼくをわからない。そのなかでお互いを理解しようとして、愛そうとして、愛されようとする。
いつか誰かと完全な恋におちる。それは幻想であるが、同時に必要な希望でもある。
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