mixiユーザー(id:1041518)

2017年01月19日18:56

1414 view

存在は類ではない

今読んでいる『トピカ』(アリストテレス)はさして面白くはないが、現在「類」と「種」についてえんえんと書かれているので、例の「存在は類ではない」を思い出してまた考えてみた。(自分自身へのメモなので、スルー推奨)。

「類」は「種」を束ねたものである。「赤」や「青」を「種」とすればそれらを束ねるのが「色」という「類」で、それらが集まると虹ができたりする。一方、白、黒、黄色は「人種」の標識で、それらを束ねると「人類」であるというように。つまり「類」はその中身が細分化されてはいるが、それらに共通な特性をまとめた枠組みである。「種」を内包していないものは「類」になれない。

犬と人間は動物という「類」に属し、植物「類」とは一線を画しているが、しかし生物というさらに大きな「類」の中では同「類」である。生物として石ころとは一線を画しているものの、物体としては同じ穴のムジナだろう。そういう具合にワクを広げていくと、最後に行き着くのは「存在するもの」ということになる。だから一番大きな「類」は「存在」ではないか、と考えたくなる。

しかし、アリストテレスが「存在は類ではない」と言う。どういう意味なのだろうか。『形而上学』でも箇所によって叙述に揺れがあるが(後世の人がまとめたのでいろいろな時期がごっちゃである)、私の適当な理解ではこうだ。どんどんワクを拡大していくのはいいが、種差を含みつつも共通の括りをもつものが「類」なのに、あらゆる存在物となると何かの種を内包した共通の「類」としてのまとまりがないじゃないか、というもの。もし「存在」(抽象概念も含む)が共通なのだと言い募るのならそれとして認めたとしても、それ以外の「類」としては「存在しないもの」しかない。ないものは考えられないじゃないか。原理としてはその前までとしよう、ということではないか。

私なりの言い方をすると、カテゴリーを拡大していくことで「高次」の「類」を目指すのはいいが、下位の「種」から引っ張られていないと糸の切れた凧みたいに飛んでいってしまうのが「類」の本質だということではないか。(ちなみにギリシャ語で「種」は「エイドス」(語源は「見えたもの」、「類」は「ゲノス」(「語源は血統、種族、分類」←すごく差別的だよね^^;)

明日、トランプ氏が米国大統領に就任して演説をすることになっている。彼はレイシスト(人種差別主義者)だと言われている。彼は当然反論しているが、彼が勝利した後、マイノリティへの襲撃事件が急増した。してもいいゴーサインが出たと思っている層があるということだろう。「類」が友を呼んでいるわけだ。日本人はそのあたりの感覚がよくわからない。しかし、観念的に「人類愛」とか言っている人の中にも欺瞞はあるのではないか、と感じる時がある。「人類」は「人種」を束ねたものだ。

ついでだが、アリストテレスの以下の文章に驚いた。「〔人間は種に分割されないではないかと反問されるかもしれないが、それは〕人間というのが個々の人間の〔種であって〕類ではないからである」(『形而上学』第三巻第三章)。彼の時代には今日言われるような「人種」は認識されていなかったのだ。だからそれを束ねた「人類」もなかった。個々の人間が種だ、みたいなことを言っている。同じ人種でも、奴隷制という別の枠組みはあったので、アメリカはそこから多くを学んだらしい。
3 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年01月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031