本日の朝読書の感想
インド聖典では、解脱の章にはいりました
ラーマが覚醒しだしました
^_^
心をハートに休ませなさい
という文がありました
自然なる愛
ハート(記憶)
心
意識
自我
自我から
ストレートに
ハートに癒されることが
癒しなのでしょう
そのとき
私という言葉はハートの代名詞として
認識されることになります
それまでは
私を含む世界すべては
疑い(空想)でした
真我なる愛(私は愛)
という表現にきりかわると
心地よい穏やかな眠りのような平安に
満たされることとなります
日中の活動でも
無明であるならば
感覚は自己にとって敵となってしまいます
しかし
真我であれば感覚器官を友(そのエネルギーのあらわれ)とみなすだけです
真我(私は愛、私は在るという気づき)をしらないことが
不幸(錯覚)をひきおこすのです
嫉妬心(好奇心)、批判(罪悪感)
あるいは
若さの楽しみ(好奇心)、老いの苦しみ(罪悪感)
は
ひとつの自我(好奇心と罪悪感)に
その正体をもっています
そして
その私とは自律しておらず愛からきた
とわかれば
変容するのでしょう
精神的貧困は、幻想としての世界であくなき
重労働をうみだします
それは活力という芳香を放ちながらもじつは虚しい行為です
鉱物など動かないものも
無知であるIAM
の投影として
夢のなかにあります
それは深い眠りに似ていますが
悟りではないそうです
深い眠り(IAM)という闇が
自然なる愛からの
記憶であるハート
に癒されるならば
無知は癒されていきます
そして最終
には
そのようなひかり(自然なる愛の記憶という状態、トゥーリヤ)さえ
真実である自然なる愛そのもの
にきえさるのです。(トゥーリヤーティータ)
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