本日も
起こることしか起こらない
のなかで
次のような言葉が湧いてきます
なぜ
悟りに
思考はいらないか
です
意識はすでにあります
それは思考によって生まれたわけではありません
たとえば顕在意識(意識の反映)は
朝起きたときからすでに
あります
考えは
それを超えることはできないのです
考えは
自我の範疇にあるからです
自我は、意識上にあらわれてきた自律の信念(催眠)であり
自我が投影した脳や身体と同一化します
じつはそれもオートマチックなのですが
さて
意識そのものはコントロールできません
それは
探究エネルギーによってオートマチックにあらわれるスクリーンだからです
ここでいう探究エネルギーとは
I AMというエネルギーであり
そのI AMは
基盤の無我という深い自然なる愛からワクワクによってあらわれています
無我の反映であるそれは、ほんらいの平安としてかんじられるものです
あらわれる順序は
自然なる愛
I AM(ワクワク想像である主体のエネルギー、反映は個々の探究のエネルギー)
意識(スクリーン いまここ、反映は個々の平等な意識の量)
自我(自律の信念、私たちという大我、別名ハート、その反映は小我である個々の私という信念)
投影
同一化する脳(観念の働き)や身体(五感の働き)や外部世界
という順序です
さて
朝起きたとき
すでに顕在意識があるにもかかわらず
自我という信念は脳や身体と同一化したために
あらためて
なにかのコントロールができると信じています
すでに自我(大我)が投影した世界のなかで
さらにコントロールを望むようになります
ヨガ行者なら
呼吸をあらためてコントロールしようとしたりします
スピリチュアル探究者なら
観念であらためてコントロールしようとしたりします
そのどちらも自我(小我)
をとおしてオートマチックに起きているのです
しかし顕在意識はすでにあるのです。小我以前に、そしてそのコントロール以前にです。
さて
この全ては(俗世間の探究やスピリチュアルの探究)
は
まさにオートマチックに起きているのです
小我をとおして起きていたのです
そして
最終的な癒し
(それらをやめること)
も自然におきているのです
わたくしが書いているのは
こうすればよいのだ
という意味でかいているのではなく
オートマチックでおきています
ということを
かいているにすぎないのです
(かいてることは湧いてくるわたくしの体験や仮説にすぎませんが)
本日も湧いたことを
書いています
^_^
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