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2024年04月30日03:47

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こんどは原作小説に手を伸ばして、物語そのものを考え直しました。オリヴィア・ニューマン監督「ザリガニの鳴くところ」(2022)。

以前から僕は、原作小説と映画化された映画は別物だと言ってきました。じっさい別物だと考えますが、とりあえず映画だけ見ていたら“分からない”部分がある場合は、原作小説ではどうだったのかを知ることで、少しは“進化する”こともあると知っています。たとえばイアン・フレミングの原作小説では00課は40歳で定年となっている、などね。

今回、「ザリガニの鳴くところ」については、前回ネタバレで書いた部分にさえ、僕の誤解があったわけで、それをまず訂正したいと思います。でも前回も書きましたが、未見の方はこの日記を読まないでください。映画化作品が小説から離れて、具体的には表現しなかった部分を、原作小説だと実に直接的に表現しているので“つまらない”からです。

それと今回僕が読んだ原作は、判決が出あとから最後までの一部です。ということは、映画がわざとはっきり描かなかった部分について、もっと詳細に述べている可能性もある。つまり、僕はカイアのノートに“テイトのイラストがあった”と書きましたが、あれはチャンスなのでした。テイトが首飾りを着けているという絵を、カイアが書くはずがない。

そして、弁護士のトムが夜の街角で見た、テイトが抱き合う相手の男性は、テイトの父親だったと見直してわかりました。その前にカフェでトムが見かける、親密な男女については誰なのかは不明。というか関係ないと判断しました。さらに最終第57章のタイトルが“ホタル”でした。そう、チャンスが死んだ日の夕方、出版社との食事会でカイアが語っていた、あの“ホタルには2種類のライト・シグナルがある”です。

テイトは、カイアが新聞に投稿されている詩を熱心に切り抜いて収集していたと語ります。その詩は、アマンダ・ハミルトンという女性の投稿でした。カイアが薪の下に隠していた葉巻の箱にその詩の草稿があり、カイアがアマンダ・ハミルトンその人であったと知るわけです。

そしてまた、カイアとテイトがずっと子宝に恵まれなかったと、小説は簡単に述べています。とすると、判決直後にカイアが、実に意味ありげに自分の下腹部をそっと撫でた、あのカットは何を意味するのか、明確には分かりません。原作にはない(少なくとも判決直後の描写にはない)から、映画を作った連中の意図だとは感じ取れますが。

僕が“映画と原作は別物”と考えるのは、そんな描写の違いがあるからです。だから映画は映画だけで論じる方が良い。今回のように“原作ではこうだった”という“理解”は、基本的に誤りであると認識したうえで、カイアが湿地で幼いころから独り暮らしを続けてきたという“事実”を、ひとつの哲学として味わうだけでいいのだと僕は考えます。

ということで僕は、カイアの信奉した自然界の摂理というものを、カイアの生き方として尊重はするけれども、すんなりと人生哲学として受け入れるわけにはいかないのでした。だって自然の摂理というものを100%受け入れると、弱肉強食の論理しか導き出せないという危惧がそびえ立ってしまうから。

だから僕は、ジャンピン(雑貨屋の主人)が奥さんのメイベルに“Be careful”と発言したとき、メイベルが聖書を引用して反論し、“二度と私にBe carefulと言うな”と言ってのけたシーンを忘れないようにします。“Be careful”という言葉は、テイトの父親が“言いたくないけれど父親としては言うしかない”と語った、実に複雑な言葉なのですから。
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