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2023年10月04日22:43

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本棚587『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』奈倉有里(イースト・プレス)

 「その日に聴いた詩を味わいながら坂をのぼり、歴史図書館に向かう。寮に帰るともういちど清書したノートを開き、ノートから威勢よく聴こえてくる声に耳を傾ける。こんな日々がずっと続けばいいのにー幸せな日々の連続に、私はそう思うようになっていた。私はいまでも、もし一瞬だけ過去のどこかに戻れるとしたら、あのとき歴史図書館に向かっていた坂道に戻りたい。」

 ページを繰り、終わりが来るのがもったいないと思える本と出会えることは、読書をする上での醍醐味である。高校を卒業して、日本の大学に通ってからではなく、すぐにロシアの文学大学に入学した著者の瑞々しい感性が捉えたロシアの情景。選んだ道で「本気を出せるか否か」という基準から、見知らぬ異国の地で自身の人生の道を切り拓いていく、同年代の著者の姿に眩しさを感じた。

 様々な文化の違いに驚きつつも、お金や贅沢な物はなくても、一途に文学に没頭した、心震わすような留学生活が生き生きと描かれている。二十年近い時を経ても、いやそうした時を経たからこそ、当時の想い出は光彩を放っている。
 例えば、文学の魅力を教えてくれたエレーナ先生との出逢い。個人授業での文学談義の中、ふいに訪れた永遠に忘れえぬ一瞬、魂の通い合いは、恩寵のような静謐さを帯びている。

 「先生は、「あなたは絶対にこの瞬間を忘れないわ」と続けた。「一緒に『クロイツェル・ソナタ』を読みながら、恋愛や社会制度や嫉妬や、そのほかありとあらゆる話をしたことも、窓の外には雪が降って、鳥がとまっていたことも。あの鳥を、あなたは絶対に忘れないわ」と。」

 他方で、著者はロシアの光だけでなく、闇にもしっかりと眼差しを向けている。同じ宿泊所に暮らす、儚い夢に手を伸ばし続けるサーカス団の少年や、「法秩序を担えば法は犯せる」かのような5人の警察官の話には気が重くなるが、ロシア人歌手の歌の「この世界の光は闇より少しだけ多い」という歌詞に救いを感じる。
 
 憎しみが連鎖するチェチェン紛争や、兄弟的な国家だったはずのロシアとウクライナの紛争など、大文字の歴史や圧倒的な暴力を前にして著者は度々無力感に襲われる。しかし、著者は自身が学ぶ「言葉」を通じて、そうしたものを乗り越える術を知っていた。人と人とを、分かつのではなく、つなぐ言葉への揺るぎない信頼が伝わってくる。

 「けれども私が無力でなかった唯一の時間がある。彼らとともに歌をうたい詩を読み、小説の引用や文体模倣をして、笑ったり泣いたりしていたその瞬間ーそれは文学を学ぶことなしには得られなかった心の交流であり、魂の出会いだった。教科書に書かれるような大きな話題に対していかに無力でも、それぞれの瞬間に私たちをつなぐちいさな言葉はいつも文学のなかに溢れていた。」

 各話の冒頭に置かれた、本文と緩やかに連関するエピグラフも魅力的だ。ロシア文学の遠大で豊饒な世界が感じられる。

 「眠りなさい 新しい生のために 愛が君を よみがえらせるときまで」ーアレクサンドル・ブローク
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