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2021年02月20日06:16

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ウィトゲンシュタインとプラグマティズム

 ウィトゲンシュタインはプラグマティズムに対して否定的であったらしいが、彼の言語ゲーム論自体がプラグマティックな気がする。「言葉の意味はその使用にある」という言い方は「強いから勝つのではなく、勝ったから強いのである」にとても近いような気がする。共通しているのは、結果に重きを置いているということだろう。
 われわれの思考の傾向として、「原因があるから結果が生まれる」と考えがちだが、われわれに近しいのは実はいつも結果である。与えられるのは結果であって原因ではない。われわれは「結果から原因を想定する」のである。言語においても、「言葉に意味があるから通じる」と考えがちだが、実は「通じているから、言葉に意味がある」と想定しているだけなのだ。「言葉の意味はその使用にある」というのはそういうことだろう。
 ウィトゲンシュタインは『痛み』という言葉について実にしつこく考えている。それはそうだろう。「痛み」の本当の意味は主観的なものでしかない。冷静に考えれば「痛いのはいつも私でしかない」のに、それが公共の言葉として通用するのは如何にも不思議である。私的痛みという意味で、自分のほっぺたをつねりながら「私の言いたいのはこの『本当の』痛みについてなんだ。」と訴えたとしても、相手も自分の右手で左手を激しく叩きながら、「君の言いたいことは分かるよ、この『本当の』痛みのことだろう。」と答える。両者とも「主観的」な痛みについて訴えるが了解し得た時点で、互いの痛みについては実は分からないままお互いの痛みを客観的なものとしている。「本当の」とか「端的な」とか「実際に」とか形容して、私的「痛み」つまり「痛み」の本当の意味を伝えようとしてもそれは必ず公共的な意味として回収されてしまう。
 そのように考えると、「言葉に意味があるから通じている」というのは幻想であって、「言葉の意味はその使用にある」ということになるのだろう。
 
 
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