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2021年01月21日14:47

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言葉の意味は空疎

 前々回記事では、「金字塔」という言葉について、その内容が空疎であり言語というものはいいかげんなところがある、というようなことを述べた。このことについてもう少し突っ込んで考えてみたい。このブログを読んでいる方々は、私が「御坊哲」と名乗る人間であることをご存じだと思う。もしかしたら長きにわたって読み続けて下さっている方もおられるかもしれない。そういう人にとっては、最初に読み始めたころの御坊哲と現在の御坊哲の人物像は相当変化しているということは十分考えられる。しかし、それにもかかわらず、御坊哲は一貫して同じ一人の人物であると思い続けているはずである。最初に「御坊哲」という名前を目にした時、立ち上がった「御坊哲」の相貌はそのまま維持される。

 10年ほど前にマレーシアにおいて、キリスト教徒に「アラー」という言葉の使用をゆるすかどうかということが大問題になったことがあった。
( ==> http://www.kirishin.com/2010/01/23/38437/
一神教になじみのない日本人には理解しにくい問題かもしれない。マレーシアはイスラム教徒の多い国である。それで「アラー」という言葉は神様を指す言葉として一般化していて、キリスト教徒も神様のことを「アラー」と呼んでいるのである。それで、2007年にマレーシア当局がキリスト教系新聞に対し「アラー」という言葉の使用禁止を通告したのだが、それに対しキリスト教側はさいばんをおこし、2009年末にクアラルンプール高裁が12月31日、キリスト者も神について「アラー」という呼称を使う憲法上の権利があるという判決を下したのである。

 理屈で考えると、こんな問題が起こること自体がおかしいのである。というのは、もともとイスラム教のアラーとキリスト教のゴッドは指示対象は同じものだからである。英語のゴッドがアラビア語のアラーなのである。イスラム教もキリスト教も同じ旧約聖書を聖典としているからには同じ神を信仰しているはずなのである。どちらもユダヤ教から派生してきた宗教だからである。歴史上の人物であるキリストは、自分をユダヤ教徒であると思っていただろうことは間違いない。もともとのユダヤ教側から見れば、キリストは異端である。また、後発のイスラム教においては、キリストは聖人の一人に列せられている。

 以上のようなことを鑑みれば、神の呼称でいがみ合うというのは愚かなことと思わざるを得ないのだが、イスラム教徒が「アラー」という言葉を口にするとき、アラーの相貌が立ち上がり、そしてそれが独り歩きする。その相貌は光を放ち荘厳さを伴い言葉以上のものになる。その尊い言葉は決して異教徒の穢れた口からは発せられてはならないと思うようになるのである。

 しかし、どう考えてみても言葉というものは空疎なのである。私たちは言葉の真意というものには到達できない。旧約聖書を隅から隅まで読みこんでも神というものを真に理解することは出来ない。御坊哲のブログをいくら読んでも、私の正体にたどり着けはしないのと同じである。人はいつの間にか言葉の相貌をその意味だと勘違いしてしまうのである。もし、旧約聖書を読んで「神」の意味を知ることが出来るなら、イスラム教もキリスト教も区別がなくなってしまうはずである。そうならないのは、ゴッドにもアラーにももともと真の意味などないからだ。イスラム教やキリスト教の知識の深浅は実は問題ではない。「私はイスラム教を信じている。」という言葉による認識をもっているものがイスラム教徒であり、「私はキリスト教を信じている。」という言葉による認識をもっているものがキリスト教徒なのである。つまり、「イスラム教徒である」とか「キリスト教徒である」とかいう言葉にも大した意味はないのである。ただ、「イスラム教徒である」とか「キリスト教徒である」とかいう相貌が独り歩きしているに過ぎない。

 言葉というものが本質を持たないということは、約1800年前に大乗仏教の始祖である龍樹が既に指摘している通りである。龍樹の「すべてを陽炎と看よ」という言葉はそういう意味ではないかと私は思っている。なので、仏教においては信念対立による争いも無意味なものとされるのである。
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