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2021年01月03日11:44

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すべては仮想現実か?

 前回日記の最後に「すべては仮想現実」というようなことを述べたのであるが、私の標榜する禅的哲学ではそれをそのまま結論とするわけにはいかない。 すべてが仮想現実であるなら現実というものは何もないということになる。言葉というものは相対的なのであって、「実」があって「仮」があり、「仮」があって「実」があるのである。すべてが仮想ならそれは仮想と呼ぶべきではない。それはわれわれが絶対そこから抜け出ることはできないもの、すなわち現実そのものに他ならないのである。
 「すべては仮想現実」は言わば「色即是空」ということだろう。すべては無常であるその世界の中で、絶対的とか固定的なものを求めれば、この世界が「すべては仮想現実」であることに絶望するしかななくなってしまう。だから釈尊は「執着してはならない」というのである。
 しかし、色即是空だからと言って「すべては無意味」とすましているというのはニヒルすぎる。もしすべてが無意味なら「すべては無意味」という言葉自体が無意味である。「すべては無意味」と自分に言い聞かすこと自体が不自然である。釈尊がわれわれに教えるのは「執着してはならない」ということだけである。執着を離れてわれわれは自然(じねん)を得る。その時世界は再び絶妙なものとしてよみがえる。それが「空即是色」ということ(と私は解釈している)である。
 「柳は緑花は紅」とはこの世界の当たり前のことを言うのであるが、その当たり前が尋常でないことを意味しているのである。私たちは決して仮想現実の中にいるのではない、あらためてこの現実の妙を噛みしめる、地につけた足の実感を確かめながら生きよということに違いない。
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