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2020年04月02日11:11

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実感を持って生きる

 日本に伝えられた禅宗は二四流あったと言われている。そのうちの曹洞宗の三つと黄檗宗の一つを除けば、すべて臨済宗である。現在の日本臨済宗は14派り、それぞれに本山を頂いているが、法系的には江戸時代の白隠慧鶴(はくいんえかく)の一流しか残っていない。白隠は妙心寺派の流れをくむ人なので、実質的には妙心寺が日本臨済宗の総本山と言っても良い。その妙心寺の御開山が無相大師・関山慧玄 (かんざんえげん)禅師である。一般的には関山国師と呼ばれることが多い。日本臨済宗にとってはものすごく重要な人物であるが、あまり一般に名を知られていないのは素朴な修行底の人だったからかもしれない。

 妙心寺は京都の花園というところにある。花園法王の離宮のあったところで、熱心な禅の信者であった法王がそこに禅寺を立てようと思い、彼の禅の師であった大燈国師の推薦により関山国師を開山として迎えることになったのです。その当時関山国師は美濃の井深で農家の下働きのようなことをしていたらしい。誰も彼のことをそんな高僧だとは知らずに、便利屋としてこき使っていたということです。ところが、朝廷から迎えが来て、みんなびっくりしてしまった。そんな偉い坊さんなら、お別れする前に一度教えを請いに行こうと、ある夫婦が関山の許にやってきた。すると、関山は両手をその夫婦の頭にかけて、あろうことか二人の頭をガツンと鉢合わせしてしまったのである。

 そんなことをされたら痛いに決まっている。今まで散々こき使われた腹いせに仕返ししたのだろうか? もちろんそんなことはあり得ない。もうこの先二度と会うことのないこの夫婦に短い時間で、実になるような教えを説く言葉は関山には無かったのだ。あえて言えば、「頭をぶつければ痛い」という当たり前のことを教えたのである。禅には迂遠な真理というものはない。常に真理は現前している。その現前する「痛み」が真理である。「痛み」が尊いのである。「痛み」を通して、この世界の玄妙さを知る。それが禅である。

 若者は時に、「人生の意味ってなんだ?」とか「どうせ死ぬのになぜ生きる?」などと口走るが、おそらく生きているということが実感できてないのだろう。問い方がまずい。そのように問うてる人はじぶんがなにを問うているかわかっていないのである。生きることに意味や目的など無いに決まっている。すでに生きているのにその意味や目的を問うことはできない。生きることそのものが意味である。意味のただ中にいて意味を問うなどということはナンセンスである。関山国師はもうこの世にいないから、国師の代わりに自分で自分のほっぺたを叩いてみれば、そのことが分かるかもしれない。
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