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2020年03月28日11:10

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マーロン・ブランドの“演技”に着目して、たまたま再度放送したエリア・カザン監督「波止場」(1954)を再見。

僕は12年前に有料BSで初めて見ました。そのときも“ハリウッド映画のリベラルって、この程度のものか”と冷ややかな印象。今回もそれは変わりませんでした。そんな作品をなぜ見直したかと言うと、先日見た「ハリウッド映画の一世紀」というドキュメンタリーシリーズの最終回が「1950年代以前」と題したもので、そこにエヴァ・マリー・セイントのインタビューがあったからです。

セイントが言うところでは、マーロン・ブランドと歩いている場面で手袋を落としてしまったのですが、ブランドがすいと拾い上げて自分の手にはめてしまった、ということです(写真2)。セイントは港湾労働者の娘という役どころで、父と兄が働いていて、その兄が港湾労働を牛耳っている一味を告発しようとして殺されます。そのきっかけを作ったのがブランドですが、彼も殺されるとは知らなかった。

そんな二人が久しぶりに出会うわけです。修道院の学校にいっていたという役どころのセイントを、ブランドはおさげの少女姿しか覚えていない。成長して女となったセイントに惹かれるわけです。しかし兄の死因を作ったブランドから、セイントは早く離れたいと思っている。なのに手袋を拾われて、それを手にはめられてしまった。

その手袋を取り返そうとするセイントの逡巡が、言われて見れば手に取るように分かります。一方のブランドは、別に気に留めずに手袋をいじくっている。これが撮影中に落とすというアクシデントをアドリブで演じたのか、それともリハで落とすのを見て本番でもそうしようと決めたのか、そのあたりでは分かりません。でも、言われてみれば心の動きが読めて面白い。

ところが、なんです。僕にはブランドのまなざしがよく分からない。感情がこもっていないのです。たとえばアル・パチーノの出演映画を見ていたら、目の輝き方だけでいろんなことが分かります。しかしブランドの場合、「ゴッドファーザー」を思い出しても、まなざしで何かを語ったという印象がないわけです。

この映画でブランドの役は、元プロのボクサーでした。自分ではタイトルマッチまで行って、しかしボス(リー・J・コッブ)に言いくるめられた兄(ロッド・スタイガー)の説得で八百長負けをした。そのためボクサー生命を断ち切られたという筋書きです。

ボクサーのように演技をした、というと同じ「ハリウッド映画の一世紀」の「1960年代」で、ピーター・オトゥールが言ってました。“ロレンスの胸像を作った人に話を聞いたら、ロレンスはミドル級のボクサーみたいだったらしい”と。そこでオトゥールは、ボクサーが身構えるような少しクラウチングな姿勢を、全編を通じて意識したそうです。

オトゥールの場合は、相手の様子を探るような視線の配り方をしていました。一方、ブランドは視線がどこを向いているのか分からない雰囲気。もしかしたら戦う相手の視線がブランドのようだったほうが恐ろしいかもしれませんね。この映画の場合は僕には逆効果でしたけど。

いやいや、俳優さんという人々はいろんなことを考えておられるんですね。草笛光子の前に現れた新人女優さんは、芸者役なのに三味線の練習をしない。それを草笛光子が注意したら、“演技をつけるのは監督の仕事でしょ。私ができなかった監督の責任よ”と練習しなかったそうです。だからアイドル上がりの役者の多くは、見ていられないのかも。とまあ、演技に関してはド素人の僕でも、その程度のことは分かるということです。

トリビアとしては、ブランドとスタイガーの兄弟が乗ったタクシーの運転手がネーミア・パーソフでした(写真3)。テレビの「アンタッチャブル」など数多くゲスト出演しています。僕がいちばん印象に残ったのは「さすらいの航海」のキャサリン・ロスの父親役だったな。その奥さん役がマリア・シェルでした。この「波止場」ではセリフなし。映画出演第2作だったら、こんなもんなのでしょうか。
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