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2020年02月27日05:40

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このドキュメンタリー映画が公開されていたことを知らなかった僕の不明さをお詫びしたいと思います。渡辺公夫監督「東京パラリンピック 愛と栄光の祭典」(1965)。

まず、1965年5月15日に大映系で公開されていたことを僕は知りませんでした。併映が山本薩夫の「証人の椅子」だったからでしょう。さらに、2020年の1月にデジタル修復されて公開されていたことも知りませんでした。豊洲のユナイテッドシネマだけでの公開だったからでしょう。

そんなドキュメンタリー(公開当時は“記録映画”と呼んでいました)を見られたのは、たまたま1か月だけ再契約したWOWOWのおかげです。数々の安物ホラーやパニック映画にまじって、この映画が放送されているということに気づいた人も少なければ、見た人はもっと少ない気がします。←という言い方で、自分の不明をごまかそうとしているわけです。

もっと言うと、映画としての完成度は高くありません。しかしドキュメンタリーには、そういう部分を越えて“当時の映像”だという長所があります。ナレーションが宇野重吉で、音楽が團伊久磨でした。渡辺公夫という監督さんは知りません。撮影畑の方らしく、このあと三島由紀夫の「憂国」を撮影していました。

完成度が低いという言い方で片づけるのは、プロの評論家に任せておきます。ただし、外国からの人々の言葉に字幕がないという作り方は疲れる、と指摘するだけで十分でしょう。予算がない中、出来る限りの映像を撮影し、出来る限りの音声を収録したものと思われます。でもその努力だけを褒めても意味がない。明確に、このドキュメンタリーが記録した“あの時代”に意義があるわけです。

まず“パラリンピック”という名称が、この東京大会から始まったということは記憶しておくべきでしょう。そしてオリンピックが終了後の11月8日から12日までの5日間の開催だったことも。本編のオリンピックが10月開催だったこと自体、当時は不思議でした。だって水泳には少し遅い季節だから。←だからって、7月末に行うのは“異常”としか言えませんけどね。

それなのに11月に水泳を行ったのが東京パラリンピックだったということです。そもそも、“国際身体障がい者スポーツ大会”と銘打ちながら、車イスのアスリートたちがほとんど。目や耳などが不自由な方々の参加はなかったようです。それでも、当時の車イスの大半が木製だったり、スポーツをするには適していなかったり(それが“当然”でした)という“実状”を、僕はまざまざと見せつけられたわけです。

それでも22か国からの参加者を迎えて、アンツーカーではない土の競技場で、バリアフリーなんて想像できない環境で行われたこの大会の“状況”が見えてきます。なんでも資金が集まらず、人気歌手の坂本九がチャリティーコンサートを行うなど、広く募金を募って開催にこぎつけたらしい。

競技そのものも数が少ないうえに、とてもスポーツとは言えないもの(車イスを操って障害物の隙間を抜ける競争など)もあります。そんなこんなをすべて含めて、あの時代を知ることは重要だと思いました。今ではパラリンピック関連の中継も増え、健常者を上回るスポーツ活動に瞠目してしまいます。しかし、1964年には、大会旗が示すとおり“車イスの障がい者”の大会だったわけです(写真3)。

まだ現在でも“バリアフリー”が行き届いているとは言えません。地下鉄などのエレベーターが増えましたが、健常者が我先に乗り込むという現状はいかがなものか。あるいは車イス以外のハンデを背負った方々に対するケアなども、まだまだ不足しています。“小さい政府”を目指した国家予算の“経費節減”は、実は本来充実するべき社会福祉予算の削減でしかなかったように思えます。

“社会主義”を標榜した国々が破綻したからと言って、“オバマケアは社会主義だ”と非難する大統領がいる。こうなったらやはり、シアトルの女性市議会議員のように“トロツキスト”だと名乗らないといけないのか? 第二次世界大戦の世界的な痛手に対する“反省”は、雲散霧消してしまったということなのでしょう。そうさせたのは我々だし、僕にも一因がある。と、反省だけならサルでもする、といういつもの論法になってしまうのでした。
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