マルクス・カブリエルは「モラルは実在する」と言ったが、ウィトゲンシュタインは「論理と倫理については語りえない」と言った。私にはウィトゲンシュタインの方が正しいような気がする。
我々は論理によって思考する。つまり、我々の思考は論理のただなかにいるのであるから論理そのものを思考することはできない。同様に、倫理は我々の価値観に基づいているものであるとするならば、倫理の根拠となる価値観そのものを判定する価値観はそれより上位の者でなくてはならなくなるはずだ。そういうところに宗教の必要性があるのだろう。
だがよくよく考えてみれば、我々は結局自分の価値観に基づいて行動するしかないのである。敬虔なクリスチャンが神のみ教えに従って生きるというも、最終価値としての神への信仰に価値を見出しているのは自分自身である。
【 それが普遍的な法則となることを君が同時に意志することができるような、そういう格率にしたがってのみ、行為せよ。】
カントは上記のような道徳法則に到達するための公理とも言うべきものを我々に提示した。なるほど、もし道徳法則というものがあるとすれば、そういうものなのかもしれない。確かにこの前提に沿った格率に忠実に従っていれば論理破綻はない。さすがにカントは理論の人である。もしカントの公理が正しければ、「嘘をついてはいけない」という定言命法は道徳法則たりえる。しかし、論理破綻しないためにはあくまで定言命法でなければならない。しかし、絶対嘘をつかないということはほぼ不可能というか、局面によっては積極的にうそをつかなければならないこともあり得る。もちろんカントはそのようなことを承知のうえで、道徳的であるためにはいかなる時も道徳法則への尊敬を忘れてはならないというのである。
こうしてみると、キリスト教もカントの道徳法則もどこか一点で「信じる」ということがなければはじまらないということに気がつく。神を信じるかカントの公理を信じるかをしなければ実は道徳について語ることはできないように思う。
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