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2019年08月30日10:31

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帰納法を準論理としたらどうだろうか?

私は昨日の正午に友人の鈴木さんと東京でランチを食べていた。妻はその頃大阪にいて、御堂筋を歩いている時に偶然鈴木さんを見かけたと言う。妻が嘘を言っているのでなければ、妻が視かけたのは鈴木さんの双子の片割れかまたは単なるそっくりさんである。どれだけ似ている人物でも、同時にはなれた場所にいる人を同一人物と考えることはできない。同一人物だと考えようとしてもできない。それが論理に逆らって考えることはできないという意味である。「Aかまたは非Aのいずれかである」という排中律はいつでも正しい。

論理には推論規則というのがある。(A⇒B,A)⇒B 、「AならばBでかつAならばB」という法則である。仮にA=「ウナギが暴れる」、B=「地震が起こる」とすると、

「ウナギが暴れると地震が起こる」 そして 実際に「ウナギが暴れている」 ならば 「地震が起こる」 となる。

「ウナギが暴れると地震が起こる」という法則が本当に正しくて、実際に「ウナギが暴れている」ならば、必ず「地震が起こる」。我々の知性はそう考えざるを得ないようにできている。

実際は、「ウナギが暴れると地震が起こる」には蓋然性がないので、実際にウナギが暴れても地震が起こると考える人はあまりいないと思うが、「夕焼けが見えると明日は晴れる」となるとかなり蓋然性が上がるが、それでも絶対的なものではない。

一般に、私たちの思考の端緒となる推論の元の法則としての「A⇒B」は経験から帰納したものにならざるを得ない。しかし、帰納法に論理的根拠はないということは既にヒュームによって指摘されている。だから推論は論理にのっとっていても、もとの法則は帰納法によるものだから、結論も必然的なものであるとは言えないわけである。

ニュートン力学は日常的なレベルにおいてはほぼ真理だと認められているが、それでも「明日から急に万有引力がなくなってしまう。」という論理的可能性というものを完璧に否定することはできない。しかし、「明日から急に万有引力がなくなってしまう。」可能性というものを考えながら生きていくというのも実際には愚かなことのように思える。実際には我々のほとんどは万有引力の永遠性をほぼ完ぺきに信じているのである。

しかし、論理の必然性と万有引力の蓋然性の間には明らかな隔たりがあることも事実である。蓋然性というのは我々の心理の傾向性というニュアンスがあるが、論理の絶対性というのは我々の心理を超えた崇高性があるように感じると言ったら言い過ぎだろうか。

しかし、超越論的な視点から見れば、論理がいかに崇高に見えようとも、論理もやはり進化の過程で獲得された能力であることを認めなくてはならない気がする。自然の摂理と一致しないような論理をもった個体は生き残れないはずだ。超自然的に論理が脳に刻み込まれたとは考えにくい。だとすれば、論理も我々の心理的な傾向性であるとは言えないだろうか。

ごちゃごちゃ書いているうちに言おうとすることを見失いそうなので、結論を先に言うと、論理の必然性も帰納による蓋然性も心理的な傾向性であるとするならば、帰納法にもっと積極的な評価を与えてもいいような気がすると言いたいのである。
ポバーは科学の正当性を反証可能性に求めたけれど、これって全然ヒュームの懐疑には正面からは答えてないような気がする。この際、帰納法に準論理というような地位を与えて、より多角的な検証に耐えた信憑構造というものを正当化する理論というものが考えられないだろうか。
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